12345678910111213141516171819202122232425262728293031
-------- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| スポンサー広告 |
2010-12-04 (Sat)
 

  児童養護施設「七海学園」。この学園には「学園七不思議」と言われる噂があり、今施設でも起こる不思議な出来事にも波及をもたらしていた。
 「非常階段の行き止まりから消えた少女」「暗闇のトンネルから聞こえるいるはずのない人間の声」等、七海学園で働く春菜は子供達に起こった不思議な出来事や謎を相談するのは児童福祉司である海王さんであった。
 どんな子供達も「いい子ですね」と評する海王さんはしかしとても子供達をよく見た上でそう評する人であった。
 彼は春菜の思いもつかない真実を読み取って謎を解き明かしてくれるのだった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
この作品は第18回鮎川哲也賞受賞作である。
まだ新人さんという点を考慮して甘口採点するとミステリーとしては中の中位かなあ~と思う。短編連作で数珠繋ぎになったそれらが最後に別の図柄を見せるという仕掛けである。
 正直個々の謎解き自体はちょっと強引な部分や現実的にはどうよ?という突っ込み所が多々あるのである。児童福祉法が結構謎解きに絡んでくるのだけど、私はそういう知識がちんぶんかんぷんなのでなんか種明かし部分にブラックボックス的な印象を受ける。
 ラストの仕掛けも私は自体はそれ程そそられなかったかなあ(太鼓判押す人もいるとは思うが)。カタルシスが足りない。
 だからミステリーとしてはそれ程この作品を評価していないのだ。

 でも通常だったら途中で読むのを辞めていただろうが、 結局最後まで突っ込みの合いの手を入れながらも読んでしまった。  それは魅力ある文体と物語の持つ世界観に惹かれたからだ。読ませる力があった。
 児童擁護施設というミステリーの舞台としてはかなりめずらしく、それが舞台装置として有りか無しと言われたら有りだとは応える。ただ不味くは無いけど何もわざわざこの食い合わせにしなくてもなあという感じでもある。
 でもそこに集う子供達のお話は「物語」として読ませてくれる。「ミステリー」という衣を拝借した「子供達の生きる物語」、そこに魅力を感じた。
 児童虐待に付き物の「闇」なような重さや暗さは描けていない(もしくは書かなかったのかも)。その辺りに批判の余地はあると思うが、私はこの作品に関してはそういう面に焦点を当てなくて正解と思っている。
 そのせいもあってかどこかファンタジックで、優しさというそういうものが根幹にあるような作品世界が私は好きだった。

 そして出てくる登場人物達がぐいっと物語を牽引してくれる。
 一連の物語の狂言回してきな役割となる施設で働く春菜。そして「安楽椅子探偵」的な役回りの児童福祉司海王さん。感情移入し易いというよりその感情に副えるような気持ちを持つ。
 魅力あるというのとは違うかのかもしれないが読み手を吸引する力のあるキャラクター創りが上手いと思う。
 ミステリーを紡ぐ手腕というのは場数をこなせば上手くなるもんだと思う。勿論センスがあってこそ磨かれるものだと思うがは七河さんはその素質をお持ちだと思う。
 ただ「魅せる・読ませる力」というのはほとんど確変がない限り先天的というか努力云々でではないと思う私は。だから最初からそういうものを持っているその辺りが凄く楽しみな作家さんである。


指の運動にポチッとお願い致します。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
| 七河迦南 | COM(0) | TB(0) |
2010-12-01 (Wed)


 アイルランド系移民で一代で成功した農園主の娘、スカーレット・オハラは、自分と同じ上流階級の長身の美青年アシュレー・ウィルクスに恋をしていた。だがアシュレーは、アシュレーの従姉妹メラニーと婚約していた。「12本の樫木屋敷」でのバーベキューパーティーで、2人の結婚を知って愕然としたスカーレットは、癇癪を起こしてアシュレーの屋敷の家具のつぼを投げつけて壊す。これを見ていたレット・バトラーは、彼女の躍動的な精神に恋をしてしまう。
スカーレットは軽蔑する友人たちの陰口を聞き、メラニーへのあてつけのために彼女の兄(チャールズ・ハミルトン)が自分に求婚をするように仕向けた。何も知らないチャールズは、スカーレットの思惑通り、南北戦争の開戦のニューズに沸き立つ中で彼女に求婚、スカーレットは後悔しながらも結局結婚してしまう。しかしチャールズは結婚後まもなく戦場に赴き病死。スカーレットは17歳にしてチャールズとの間にできた長男ウェードを出産して、未亡人となる。-ウィキぺディアより


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 「風と共に去りぬ」は高校2、3年の17、8の頃に読んだ。
 当時それ程本を読んでいなかったのに何故大長編に手を出したのか今となってはよくわからない。
 何かしらのきっかけはあったとは思うのだが、人生に悩んで生きる糧を得たいそういう類ではない事は断言出来る。恐らく鼻で笑い飛ばすような理由だったろう。

 断言するが若き日の私は決して「おっさん好み」ではなかった。でも何故だかレット・バトラーの大ファンになった。
 現実的に考えた場合の女性にとっての理想の男性かなと思う、決して王子様タイプではなくナイトタイプとでもいうのか。女性を自分の手のひらで遊ばせるような包容力とそしてどんな事があっても食いっぱぐれの無さそうな経済力。夢見るなら王子様でもいいだろうが現実ならこういうタイプの方がベター。

 だからこの作品における王子様タイプはアシュレイなのだろうけど私は全く惹かれなかった。昔から幾ら顔が良くても甲斐無しの弱い男にはまるで食指が動かされなかったのだ。
 それ故読んでいてどうしてスカーレットはレットには見向きもせずにアシュレイに夢中になるのか全く理解出来ないまま読んでいた。
 作者のマーガレット・ミッチェルさんはこの作品が初めて書いた作品とは思えない程の筆力と完成度だけど、スカーレットがアシュレイにあれだけ惚れ込む設定だけはどうしても違和感というか、私にとっては説得力が無かった。ラストでスカーレットがアシュレイを理解していたら彼を愛する事はなかっただろうという記述があったけど、まだまだ青いガキの私にそんな心の深い機微なぞ理解出来るわけ無くスカーレットの男の趣味の悪いなあと思いつつ読んでいた記憶がある。 
 
 ラストでスカーレットがようやく自分が本当に愛しているのはアシュレイではなくレットだと気づき彼に愛を告げるが、彼女への愛に疲れ果てたレットはそれを拒絶する。
 当時高校生の私はどうしてレットはスカーレットを受け入れてやらないのだろうと思った。長年恋焦がれた女性がやっと自分に振り向いてくれたのになんで別れるのか全く理解出来なかった。怒ったし、腹も立てた。私はハッピーエンドになる話だと思って読み続けていたので。 
 でも自分が年を取りレットの年齢に近づくに連れてようやく彼の気持ちが痛い位に胸に染み込んで来た。
 スカーレットへの愛に疲労したレットの思いの重さ。 年を重ねる事によって一番失われていくものはバイタリティーかなと思う。レットが自分の年だと一度壊れたものをまた作り上げていくのは難しい若ければ違ったかもという気持ちはよ~くわかる。
 心に溜まった澱の重さはあらゆる理屈を超えるのだ。愛情とか正しさとかそういう全てなぎ倒す。
 レットの気持ちがわかるようになって自分も年を取ったんだと改めて実感した。

 当時まだそれ程メンタルも悪くなく、自分のような悩み事もなく良い意味でも悪い意味でもぬるま湯季節だったあの頃。
 スカーレットの何かがあっても絶望する事を選ばず、明日がある事に希望を託して生きていく姿の本当の凄さを
あの頃の私は一cmも理解していなかったなと思う。強い女性だなあ~とは思っていたけど。
 そしてその「強さ」にある悲しみも今ならわかる。でも彼女はそういう「悲しさ」なんて気付かない人だろう。そんなもの「何?それ」とか放り投げそうだ。

 この年で再読したらどんな感想を持つか楽しみである。
 
指の運動にポチッとお願い致します。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
| 外国人作家 | COM(2) | TB(0) |
2010-11-28 (Sun)


 1925年、北京。娼婦の母親に連れられ、孤児や貧民の子供たちが集まる京劇の養成所に入った9歳の少年・小豆子。新入りの小豆子は他の子供たちからいじめられたが、彼を弟のようにかばったのは小石頭だけだった。2人は成長し、女性的な小豆子は女役に、男性的な小石頭は男役に決められる。小豆子は「女になれ」と老師爺(黄斐)に躾られ、数え切れないほど殴られた。彼らは演技に磨きをかけ、小石頭は段小(張豊毅)、小豆子は程蝶衣(張國栄)と芸名を改め、京劇『覇王別姫』のコンビとして人気を博す。段小はある日、しつこい客に絡まれていた娼婦の菊仙(鞏俐)を助けたことをきっかけに、彼女と結婚する。少年時代より小にほのかな恋情を覚えていた蝶衣は2度と共演はしないと捨てゼリフを吐いて去る。その日北京は日本軍に占領された。ある日小は楽屋で騒動を起こし連行されてしまう。菊仙は日本側に取り入ってもらえるのだったら小と別れてもいいと蝶衣に告げるが、彼の協力で釈放された小は日本のイヌと彼を罵り菊仙を連れて去る。深く傷ついた蝶衣はアヘンに溺れる。そんなことがありながらも2人は和解へと進む。その後老師爺はこの世を去り、日本軍の敗退で抗日戦争は終わる。49年、共産党政権樹立。蝶衣と小は再び舞台に立つが、京劇は新しい革命思想に沿うよう変革を求められていた。-gooより

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この映画のレビューを色々読んだけど悪く言っているレビューを読んだ事がない。どのレビューも最上級に近い褒め言葉ばかりである。それも納得の「創作の神様大光臨」の映画である。
 私達日本人から見たら近代中国50年史という外国の歴史物語であり、「京劇」とか「文化大革命」とかあんまり日常生活でお目にかかる機会のない馴染みの薄い題材が多いけど、それでいながら三時間近くの大長編を一秒たりとも飽きさせないこの吸引力が凄い。

 京劇の男役段小と彼に恋心を抱く女役の蝶衣。そして段小の妻である元娼婦の菊仙。男女3人の異質な三角関係が釣り糸となり物語を牽引する一方で上手く中国の歴史を編みこんでいる。
 この作における三角関係は「女→男←男」なのである。でも下世話的な話になっておらずひたすら報われない愛に生きる、ひたすら1人の男性を愛する京劇の女形役者蝶衣=レスリーの切なさが物語の「情」の部分を支えている。 (ただ「芸の道を究める」それが故に現実と虚構の線引きが出来ない蝶衣の段小への思いというのは恋なのか芸事の延長線なのかと感じる時もあったけど)。

 それと視覚的な美しさが飽きさせない理由の一つだと思う。「京劇」のシーンは本当に目に痛い位美しい。かなり視覚に訴えてくる映像だけど、存在を主張し過ぎる事無くきちんと芸術的な役割を果たしている。
 
 一番神様に愛されたのはやはり蝶衣演じるレスリー・チェンだろう。どの細部・演技者にも神が宿っていると思うけど、それでも彼無くしてこの映画は成り立たないと思う。
 役者というのは「役を演じる」人なのだろうけど、この作品におけるレスリーの演技は「役を生きる」であった。
 蝶衣を生きているレスリーは怖い位役とブレていない気がした。演じ者のレスリーの気配を全く感じない。映画の世界は当たり前だけど創作の世界であり、そこに登場する人物達はあくまでも虚構。でも現実に生きているか虚構に生きているかの「居る場所の違い」に過ぎないと思わされる位の神演技。
 
 コン・リーもさすが中国を代表する女優さんだけあって見る者を惹き付ける演技である。失礼ながらとびきりの美人さんではない。でも菊仙という女性は女の嫌らしさもしたたかさも持っていてそれでいながらたくましい女性を見事に演じきっている。

 で色んなレビューを読んでレスリーとコン・リーを褒めている人はたくさんいるけど、もう1人の主役であるのチャン・フォンイーの評価は低い(というか触れられてさえいないというか。。。)。
 段小という役柄は菊仙と蝶衣に愛されるという重要な役どころで、これまた失礼ながらも上記のお2人と比べると演じているチャン・フォンイーは知名度もそうだが存在感と役としての吸引力は劣る。
 ただ個人的にだからこそ、この映画においてはそれが正解のではなかったかなと思う。段小は決して人格高潔な男ではない。正直菊仙と蝶衣が情熱を傾けて愛するに値するような男性像として描かれていない。だからこそある意味薄っぺらさ(本当に失礼ですが)を感じさせる存在としてはその役割を果たしていて、そういう男性を愛した2人の人間の悲哀をしみじみ感じる出来過ぎでないのが丁度いい。穴がある位の方が他が際立つ(本当に失礼な事を言ってると思うのだが。。。)。

 男性であるレスリーのあまりの美しさに女性である自分の不甲斐なさをちょっぴり感じたのはおまけつきでした。 
 

 指の運動にポチッとお願い致します。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
| 映画 | COM(2) | TB(0) |
2010-11-27 (Sat)


「私」は重度のアルコール依存症。
 妻子は居たが「アル中」の為に家族へ迷惑をかけ続け妻に三行半を突きつけられた。
 「次飲んだら死にますよ」と言われても飲み続け大量の血を吐いては病院に運ばれる。やっとこさ「アルコール専門病院」に入院し、そこでの日々が赤裸々に綴られている。

  鴨志田穣氏の自伝的私小説。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 私は下戸である。でも父親が大のんべえなので血筋的にはイケル口だと思っている。
  真夏の風呂上りにキンキンに冷えたビールをぐいっと飲んで「美味い!!!」と叫んでみたいし、人生のうさを酒で晴らす一時が欲しいなあと思うし、ほろ酔い加減というのを体験してみたい。
 酒が飲めるというのは飲めない人間よりは人生何%かは得しているはずだ。人生におけるグリコのおまけみたいで。
 じゃあ何故飲まないのかと言われたら、多分「飲まず下戸」なんだと思う。のんべえになる縁が今の所なかったという事か。 

 ただ鴨志田さんの「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を読んだ時、酒が飲めるのも楽しいばかりではないんだなあと思った。「酒が飲める」というのは逃げ道を持つ事にもなるのだから。
 鴨志田さんはあのサイバラこと西原理恵子さんのご主人として有名で数年前にガンで亡くなられている。
 彼が淡々々々々々々とご自身の「アル中体験」を綴られているが、これは鴨志田さんの性格というよりもある種の自己防衛本能なのかなと思う。
 吐露し過ぎて自分を曝け出し過ぎないようにセーブしているように感じた。

 鴨志田さんはいわゆる破滅型なんだろう。本来とても繊細でご本人自身酒を飲んでしまう理由を問われて「自信」がないからと答えてらっしゃるが、崖に向っていく生き方は弱さというか強くないための性なのかなあ。
 だから正直何故戦場カメラマンになったのなとは思うが。彼はそこでの現実に耐えられずにご自身を更に追い込んでいる。なんだか不器用で切ないし哀しい。
 そういう彼を愛する人間はつらいだろう。
 奥さんのサイバラさんとは本当に正反対だなと思う。彼女は本来の姿なのかどうかはわからないが、あらゆる事を糧として生きいく方向へ向う強さが凄いと思う。正反対(でも本質的な所では似てる)だからこそお互いパートナーになり得たのかもしれない。
 
 下戸の私からみたら死ぬと言われても飲んでしまうというのは理解し難い。でも自分はメンヘラだから「アル中」の心の病というリンク出来る部分は理解出来る。「自分で止めたくても止められない」感覚は非常に共感してしまう。恐らく地球上で一番酒を辞めたいと思っているのは鴨志田さん当人だろう。でも自分の意思ではどうにも抗えないような、家族の愛情でも救いきれない、そういうどうしようもなさこそ病なんだろうけど。
 せっかく数ヶ月酒を辞めていたのに奈良漬を食べてしまいまた酒を飲んでしまうという下りはゾクッとする。
 
 時折サイバラさんらしき妻が登場する部分は特別な反応をしてしまう。たいして登場しないのだけど、お2人の関係性を知っている目線で読むと、クールな描写に透けて見える愛情を感じてこそばゆさと切なさを感じてしまう。
 タイトルの「~うちに帰ろう。」という文言が鴨志田さんの家族への思いを感じる。
  
 暫くは飲まず下戸でいいかなあと思った。
 

指の運動にポチッとお願い致します。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
| 鴨志田穣 | COM(0) | TB(0) |
2010-11-24 (Wed)
 

白昼の渋谷で起こった無差別爆弾テロ。その犯人は公安がメシア神道という宗教団体に潜り込ませた公安刑事である照屋礼子。
 過激な宗教団体であるメシア神道は強制捜査により瓦解し、首謀者である教祖は死刑判決を受けていた。それなのに照屋礼子はミイラ取りがミイラの如く次々と無差別テロを遂行する。
 彼女を追う人間の1人である刑事鳴尾良輔は担当した事件の女性と獄中結婚をしており、その為に警察組織では冷や飯を食わされていた。
 だが鳴尾は獄中にいる妻の知恵を借りながら運命の糸により照屋礼子を狩る人間として誰よりも彼女に近い位置に迫っていく。
 そして公安の不祥事発覚を恐れる阿南達により彼は妨害を受けるが。。。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  この「魔笛」を面白いという人はたくさんいると思う。だが好きだという人は恐らく1ダース位しかいないんじゃないかと思う。
 私はこの作品が凄く好きだけど、内容が読む人の心のおうとつに良い意味でも悪い意味でも刺激を与えてしまう。
 人や社会の「暗部」に触れる内容も多くその剥き出された部分ににシビレル人もいるだろう。
 だが面白さというのなら野沢作品の中でも抜群の出来であり、最高傑作の一つという言葉は過言ではないと思う。

 この作品は某鳥の名前の宗教団体をモデルにしていて、それ故に江戸川乱歩賞を逃されたようである。北方謙三さんのがおっしゃるには「実在の宗教団体をかなり強く意識させたために賞の持つ自己防衛装置が働いた」ようであるが、それは止む負えないだろう。「実在の宗教団体をかなり強く意識させる」だけなら過剰防衛だろうと思うが、当時のあの大騒動を肌で実感している世代にとっては非常に生々しい空気感を感じさせてしまう臨場感がある。
 それ位この作品からは物語の持つパワーというかエネルギーを浴びた。

 野沢さんは脚本家出身だけに状況描写が上手く詰め込みを紙一重でかわしているような勢いというかスピード感ある展開で、ちびちびやるつもりが一気に食べ尽くしてしまった。 
 実は多少無理な設定と展開、特に鳴尾刑事が照屋礼子へ迫る展開は都合が良過ぎる突っ込み所はあるのだけど、読んでいる時は全然気にならなかった。
 どんな設定、展開であっても作品世界で成立しているのならOKだという良いお手本である。それは突き詰めるとどれだけ物語りに説得力があるかという事なのだろうが。

 上記で『人や社会の「暗部」に触れる内容も多く』と記述したが非常に心にスイッチが入る言葉が多かった。
 元信者という設定で語らせた言葉に「結局の所1人1人の信者の妄想が破壊的な教祖を作り上げた」(抜粋・要略)とある。これはなるほどと思った。宗教の教祖だけではなく独裁者とかそういった類の人物が出現するのはその人のカリスマ性以上に、そうさせてしまう周囲の基本善意な人間の妄想なり願望が作り上げるのかもしれない。
 それは凄く怖い事である。ほんの些細な思いなり願望が集結してしまうと何かを生み出してしまう巨大なパワーになるというのは。
 
 それと実の娘を保険金目当てなぶり殺した夫を殺した、鳴尾刑事の獄中の妻である安住藤子。
 私は人を殺すことはないとは思う。でも彼女が殺人者となった自分の核心を知りたいう下りの記述を読んで、人は絶対飛び越える事はないと思っている一線を軽く飛び越えてしまうのかもしれないと感じた。
 今の私にはその壁自体は物凄く高いように感じ強固な壁だと思っているが、でもそんなもの何かのきっかけですぐ壊れてしまうか飛び越えたりしちゃうのだ。
 私は超える事はないという意識よりも、超えてしまう事もあるかもしれないというほんのり恐れ持つ方が一線を越えない自己防衛になるのかも。

 次々とスイッチが入りまくり自分が普段あまり覗かない自分の心の隙間を感じさせられた作品だった。 
 
指の運動にポチッとお願い致します。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
| 野沢尚 | COM(0) | TB(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。