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2010-06-30 (Wed)


 呼人は生まれた直後に母親に捨てられたが、母親の妹であった妙子と彼女の夫悠二の若い夫婦に愛情一杯に育てられた。
 1985年呼人が12歳の時、友達の潤と厚介とそして密かに憧れる小春と忘れ難い夏休みを過ごす。
 そんな幸福な日々を送っていた彼に少しずつ残酷な現実が襲ってくる。12歳以後体の成長がピタッと止まってしまったのだ。
 外見は子供のまま生きざる終えない呼人に社会はとても厳しかった。
 自分の過酷な運命に萎えそうになるが、実はこの運命を呼人にもたらしたのは両親であり、父親は亡くなったが母親は生きている事を知る。
 自分がこの姿でここにいる理由を母親に問う為に彼は行方を捜す。。。 
 

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 「大人になんかなりたくない」という言葉はどこか幼い純粋さと甘えも感じるセリフでくすぐったくもあり、でも反面「大人なんて汚い」と同じ位手垢のついた言葉ではあると思う。  
 自分が子供の頃によく思った。ずっと夕日が沈む草原で遊びまくるようなそんな時間が止まったままであれば良いのにと。
 でも実際「子供のままでいる」というのは決して「幸福」に属するものではないと再認識させられた。

 最初は「ジュブナイル」的な話だと思っていたらだんたんとSFチックな展開も入り込んである種の哲学的な流れへと合流している。
 呼人は奇天烈な両親の人体実験の結果12歳で成長を止め、本人が望む限りは死なない人間になってしまう。すなわち永遠の「ピーターパン」である。
 成長という当たり前の時の流れに「取り残された」呼人の孤独が切なかった。彼を愛する育ての両親がいても彼は常に無人島に1人取り残されているのだから。
 昔から古今東西色んな人間が不老不死の野望を抱いたと思うが、実際誰もなった人間がおらずその孤独を知らないからこその見果てぬ「願望」じゃないのかなと思う。
 まあ不老はともかくとしても本当に不死になったらいつか必ず生きる事に疲れる日がやってくるのではないか。
 
 かつて呼人の友達だった小春や厚介や潤は皆大人になって彼を置いてきぼりにする。でも彼等は大人になった世界で厳しい現実に傷付いてボロボロになってしまう。
 そんな彼等が自分達が無くした宝物を持ち続ける子供のままの呼人に安らぎを感じ、そのままでいて欲しいと願う思いには共感すると共に切なくなってくる。
 それは置いていかれた呼人からして見れば残酷だろう。元の世界が恋しいと言われてもそれは「閉じ込められていない者」のある種の傲慢さだ。
 大人になって子供時代には想像もしなかった事で傷付きそれが故に無くす事も多々あるだろうけど、だからと言って宝物を手に入れられないわけでもないと思う。
 大人だからこそ見える景色はあるはず、そこにはウェンディもティンカーベルもいないけどさ。
 でも抱えた傷や痛みがフィルターとなって初めて見えてくる世界もある。
  だからピーターパンを卒業した彼等に「頑張れよ」と応援したくなった。

 「永遠」ってなんだろうなと思う。この作品には題材故に「永遠」という言葉がよく出てくる。
  私にとってはその言葉はサイズが大き過ぎて手に余る。死ぬ為に生まれてきた私達には「永遠」はない。
 自殺を決意しながらも死ねなかった呼人に友達が「どうして生きたいのか教えてくれよ」という問いに「もうすぐクリスマスだよ。パーティーが始まるんだよ」と応えるにジーンと来た。
 生きるというのはつまりこういう事なんだうなと。
 永遠はなくても生きているという「今」という瞬間はあるんだよなあと思った。そういう身近なサイズというのを大事にしたい。 
 
 光あるラストはやはり野沢尚さんはロマンスチストだったんだなあと改めて再認識させられた。 

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