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2010-04-21 (Wed)


  カメラマン喜多川が生涯で出会った様々人との断片を綴った短編集

「ストロボ」
 カメラマンとして成功した喜多川はある日かつての師と再会する。
 黒部勝人は女性を取らせたらピカ一と言われ売れっ子カメラマンだったが今は全盛期の面影も無くなっていた。
 喜多川は彼に対してある一件で後ろめたさを感じており苦い再会だった。
 どうやら黒部が時流に残されたのは8年前から女性を撮らなくなったのが主な理由のようである。
 ある時喜多川の事務所へ愛人との密会写真が送られて来た。そしてそれは黒部が送って来たものであった。
 口止め料を請求する黒部には事情があり、またそれが故に彼の最大の売りであった女性を撮るのを辞めたのだが。。。


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真保さんは「隠れロマンチスト」だと思っている。
 割と色んな題材をしっかりと勉強されて骨太な作品を書かれる方だけど、読んでいたら男性作家のロマンチズムが苦手な私のセンサーにビビッと来る時がある。でも基本は上手く作品の「色」に仕上げているのでそんなに気にはならない。
 この短編集はそのロマンチズムの安全運転という感じの色合いの作風が多く、きっと真保さんはこういう作風を書いてみたかったんだろうなあという空気が伝わってくる。
 時折アクセルを強く踏んで「おーい!!走ってるぞおー」と突っ込みたくなるがギリギリ私的に許容出来る範囲のロマンチズムで踏ん張ってくれている(なんかエラそう)。
 
 この短編集は喜多川光司という1人のカメラマン人生の軌跡を50代、30代、20代と遡る構成になっている。青春時代から熟年時代という流れではなく、先祖がえり的な逆の流れでの構成の意図が今イチ掴めないが(正直個人的には20代→50代の順番の方が自然な流れでより深みをもたらしてくれる気がした)、年齢事に違う立場や周囲の状況等によって抱えている思いや気持ちの違いに読み応えがあった。

 前から凄く思っていたのは「写真」という分野の芸術は特殊である。例えば絵画、文学、音楽等は基本は『無』から『有』を生み出す。
 しかし写真は被写体というものが存在していてそれを一瞬で切り撮って行く。基本は被写体ありきで完全『無』からの芸術ではない。そこが芸術における写真という分野の特異性であり、それが故に対象と相互作用や化学反応が起きて面白い。
 勿論同じ被写体を私とアラーキーが「写ルンです」で撮っても仕上がりは雲泥の差がある事は承知である。
 私が「りんご」を撮ってもそれはただの「りんご」としてしか写せないと思う。
 でもアラーキーなら「りんご」を「りんご」以外の存在として写せると思う。

 この短編集を読んでいると撮る側の格闘というのが伝わってくる。
 無から生み出されるものではないからこそ対象に肉薄する力が必要だ。その一枚皮をめくった先にある何かを一瞬で写し撮っていこうとする凄みを感じた。
 多分写真は撮る側のコミットメント能力とそれを支える人間としての地力が一番問われる芸術なのかと思う。

 でも骨太作品が好きな私にはロマンチズムの安全運転の真保さんは少しこそばゆい感じがする。  

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| 真保裕一 | COM(4) | TB(0) |















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