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2009-12-12 (Sat)
 

 大部屋俳優「福本清三」。定年までひたすら斬られ役を演じ続けて四十数年。斬られた回数は二万回以上。
 セリフ無し、台本無し当たり前。画面に映るのもほんの少し。代表作も無し。
 それでもこの道一筋に生きてきた。
 福本さんの斬られ役者人生は東映時代劇映画の盛衰の歴史でもあった。
 彼が歩んだ笑いあり、涙あり、汗にまみれた役者人生へのスポットライト。


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 「どこかで誰かが見ていてくれる」というタイトルは、
 「ブラボー!!!」
 と喝采したくなるナイスなタイトルである。無名の者のである私達の心をかゆがらしてくれるタイトルである。
  かゆがられた私は早速馴染みの図書館でゲットした。

 最初読み始めたときは聞き語りスタイルというのに困惑したが直に惹き込まれていく(勿論聞き手の小田さんのキャッチボールの上手さもあるが)。
 福本さんの語り口調がなんとも飄々と「可笑しみ」とでもいうのだろうか、漫談ぼくってご本人は決して面白い事を言っている意識はないのだろうけど「なんだか可笑しい」。
 この「なんだか可笑しい」というのが私的にツボなのだ。 
 軽妙が故に「悲哀」の部分が湿っぽくならずジーンという響きになる。

 この作品の魅力は聞き手の小田さんが文庫版あとがきで見事に突いている。
 抜粋要約した内容になるが、
 「福田さんはどこかで誰かが見ていてくれるという気持ちでずっとやってきたと語られているが、本当は誰も見てくれないということをわかった上でここまで努力されてきたのではないか。彼のある種の爽やかさは諦めから来る「苦さ」だと思う。
 我々は世の中の大部屋である。どこかで誰かが見ていてくれる願いは「普通」に生きる我々の胸にある一種の祈りのようなものだ」
と。
 そうなのだ。
 きっと普通に生きている人々の心の中には「どこかで誰かが見ていてくれる」という祈りにも似た思いは根付いていると思う。
 その「誰か」は狭義の意味なら「見ていてくれる誰か」であったり、広義の意味なら「神様」であったり。
 やっぱり頑張っている自分の存在を認めて欲しい。
 だから普通に生きる私達は福本さんの姿に自分をシンクロしていまい応援したくなるのだと思う。

 斬られ役ひとすじに生きてきた福本さんの役者人生はある種の「役者バカ」ともいえる。
 決して華々しい経歴ではなく、苦労も多くその対価としての実りは世俗的には今イチだと思う。
 仕事とは言えそれでも懸命に取り組む姿にバカになれるのは幸せだなと感じ入る。「バカ」という言葉をプラスに捉える日が来るとは幼き頃は思わんかった。
 勿論キレイごとばかりではなく実際は語られている以上に辛苦を味わられた部分もあるだろう。
 でも、
 「その時死にたいぐらいにつらくても、時がたつと、それがなんや涙が出るほど懐かしく思える時が来ます」 
 きっとそういう言葉へ変えていかれたんだろうなあと思った。

 後日談だがなんとあのトム・クルーズが福本さんの立ち回りを気に入り「ラスト・サムライ」のメインキャストに加わりハリウッドへ行かれたようである。 

 結構神様も粋な計らいをする。やはり覗き見しているのか。。。。
 

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