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2010-04-28 (Wed)
 ミステリー短編集

 「凍え」
 修一郎と文子の間に子供はいない。だが2人とも仲睦まじく暮らしていた。
 文子はかなりの冷え性で真夏以外は修一郎が眠りに就くまで自分の体温と手足を摩擦で暖めてあげてるのが毎日のお約束事となっていた
 ある日文子は意外な場所で修一郎を見かける。
 彼は毎週金曜日は残業の為に夜中まで会社にいるはずだったが、文子が寄ったデパートで買い物をしている姿を見かける。
 早退したのかと思い声を掛けるタイミングを見計らっていると修一郎は意外な売り場へと足を運ぶ。そこは子供服売り場であった。手馴れた感じで子供服を購入する彼に胸騒ぎを感じる。
 更に婦人服売り場で文子とは違うサイズの女性服も購入するのだが。。。。


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  夏樹静子さんの作品を一時期たくさん読んでいた。

 彼女の名前は「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン」のオープニングで有名な今は亡き火曜サスペンス劇場(聖母たちのララバイ好きでした)、土曜ワイド劇場等のテレビドラマの原作者としてよく知っていた。
 だが正直こういうテレビドラマの原作となる事が多い作家さんは失礼ながら安っぽいというか流行りもの(当時は)というか消費ものというかそういうイメージを持っていた。
 でも夏樹さんの作品を幾つも読んでいるうちにそのイメージは変わった。彼女の短編ミステリーにハマってかなりの作品を読んだけど、量に対する質という観点を加味すると夏樹静子さんの作品は「ミステリー短編名手作家」のベストスリーには入る作家だと思う。
 勿論夏樹さんより上手い短編ミステリーを書かれる作家さんは何人もいると思うが、とにかくあれだけたくさんの作品を書いていながらそのどれもがある一定の高水準を保っており、しかも当時の現代性をとても上手に作品に反映されている所は抜きん出ていると思う。
 いやいやと大衆文学というのもあなどれないものだと反省した。

 でも何故か夏樹さん、短編は超名手なのに長編は全然イケていないのが不思議である。普通短編が上手い人は長編も上手いと言われているがこの言葉は夏樹さんには全く当てはまらないのである。驚くくらいに。
 幾つか長編も食してみたが短編の美味しさ(うまさ)に慣れている身には「同じシェフでこの味かよ」的な失望感がぬぐえない。何故あんなにも短編と長編の作品の出来に差があるのかいつか暇な時にでも考えてみたい。

 この短編集は実の所そんなに秀作が揃っているわけではなく、今回取り上げた短編もミステリーではない。秀作ミステリーを紹介しようと思ったがどれにしたら良いが絞れなかったので違う『的』を持ってきてしまった。
 この短編は心に残った。
 夏樹さんの作品の中では色合いが一風変わっていて叙情的というか文学的というか。
 文子は子供が産めない、それ故に夫の浮気を知り相手との女性の間に子供がいるとわかっても責められない。でもなんとか自分の中で消化しようと無理に心を砕いていく様がなんとも痛々しい。
 ラストがとても切ないのだけどラスト数行がタイトルと呼応し、2人のお約束事がラストで更に活きていてお見事だと思った。こういうスパイスも存外夏樹さんはイケルのかなと思った。

 ちなみにサスペンス劇場は大好きでよく見ていました。


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| 夏樹静子 | COM(12) | TB(0) |
2010-04-25 (Sun)
 

1909年、南部ジョージアの小さな町。そのはずれに住む黒人の一家。自分もまだ子供にすぎないセリー(デスレータ・ジャクソン)、のちに(ウーピー・ゴールドバーグ)が、子供を生んだ。父親は彼女がとうさんと呼んでいた男だ。とうさんは生まれた子供をセリーの乳房からもぎとってどこかに連れていってしまった。セリーの心の支えは妹のネッティ(アコースア・ブシア)だけだ。ネッティは綺麗だし頭もいい。やがてセリーはミスター(ダニー・グローヴァー)に嫁いだ。ミスターは4人の子持ち。最初、彼はネッティを望んだがとうさんが断わり、代わりにセリーがやられたのだった。朝から晩まで掃除、洗濯、料理、子供たちの世話をして、ミスターにのしかかられるために。やがてとうさんとミスターのみだらな手が、賢くやさしいネッティへと向けられたことを知ったセリーは、ネッティを家から逃げるように説得。ネッティは牧師夫妻に助けられてアフリカヘ渡っていった。ある日、ミスターは歌手のシャグ(マーガレット・エヴリー)を家に連れて来た。セリーがシャグの面倒をみているうちに、2人の間に奇妙な友情が芽生えた。セリーの忍従の人生に驚くシャグと、夫の愛人ではあるが美しい心と自立の精神を持つシャグに、目を開かせられたセリー。セリーの魂は目覚め、自分も人間であること、真っ暗だった未来に道が開けているかもしれないことに気づくのだった。-goo映画より 






  この映画が私がまだうら若き乙女と呼んで差し支えない時に見たので正直うら覚えの記憶からの感想になる。

 そんなイージーな頭に残っている印象深い場面が二つある。
 ひとつは夫であるミスターの息子の嫁であるソフィアは気の強い女性で自分に暴力を振るう人間と戦ってきた。だから暴力を振るう旦那にも黙っていない。
 そんなソフィアはミスターに家畜の如く虐げられるセリーにとってその強さに憧れと同時に妬みの感情を持つ対象であった。
 それ故彼女はソフィアの夫に「殴って言う事を聞かせるのよ」(多分こういう意味のセリフだったと思う)と吹き込む。実にネガティブに美味しい場面である。
 このシーンは凄くセリーに共感したくなる、そして彼女の醜悪な部分が出ているいやらしい場面だったので心に焼き付いている。
 セリーの行為は褒められたものではないけどそうしたくなる気持ちはめちゃくちゃ共感してしまう。弱い自分から見たら強さを持つソフィアは自分が行きたくても行けない場所にいる。羨ましさと共に今の自分では掴めない位置へいる事に凄く妬んでしまう。弱さ故に。

 この映画を見て今でも残っているが当時の人種差別、女性差別はより凄まじいものがあったんだなと改めて思わされた。
 とにかく主人公のセリーは見ているこちら側が軽い鬱になりそうな位に八方塞がり的な不幸な状況にいる。
 よく私は記事で「幸福も不幸もそういう状況があるのではなく選択するものだ」と書いているが間違っているとは思わないけど、そういう言葉が当てはまるのは選択出来る余地がある場合に限るのだと思う。
 もう強制的に不幸な状況を与えられた環境ではそういう言葉は「絵に描いた餅」だなと考えさせられる。
 愛する妹への愛情だけを支えに生きるセリーに一生懸命応援コールを送っていた。

 そんなセリーが「自己」を持つ女性達に促されるように自己に目覚めていくシーンは心底感動する。
 セリー演じるウーピー・ゴールドバーグはこの作品は初映画出演作品というのが驚く位に巧みな演技である。失礼ながらセリー演じる不美人で冴えない彼女が自立に目覚め自分の人生を切り開いていく辺りからどんどん美しくなっていくのは驚きである。
 映画だから当然作り物なのだがその変貌振りがノンフィクションのようだった。役者は凄い生き物である。 

 二つ目の印象に残っているのがセリーはミスターに反旗を翻して出て行くのだが、その彼女に向って「お前はブスで女で黒人じゃないか」(多分こういうセリフだったと思う)と罵倒するが、セリーは「でも私は生きている!!!」と叫ぶシーンは拍手喝采だった。
 物凄き大好きなシーンである。たま~にこの言葉を思い出して自分を鼓舞したくなる。
 ブスで女性で黒人は三重苦だけどそれがなんぼのものだ、生きていればあらゆる可能性があるのだとワクワクさせれくれるセリフだと思う。

 生きる事は苦しいししんどいし難しいけど、でも必ずどこかには素晴らしい世界は用意されているんだなあと思わせてくれた作品だった。

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| 映画 | COM(2) | TB(0) |
2010-04-24 (Sat)
 

 13年ぶりに千沙は帰郷する。18歳の時に大学進学で故郷を出てから初めての帰郷であった。
 彼女は横暴な父親、身勝手な兄、そして何よりもただただそんな家族に従う母親を嫌っていた。
 千沙は自分が外見も性格も母親に良く似ている事を自覚しており、母親のようになりたくない為に東京でガムシャラに頑張り望む生活を手に入れていた。
 嫌な思い出しかない故郷にもう二度と戻らないつもりだったが母親が倒れたと聞き決心が鈍る。
 病院では母親はベットで静かに眠っており傍らには父親が見守っていた。
 時は流れ家族の絆の形も変化していたと気づかされる。。。。 


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  
 唯川さんの作品を久しぶりに読んだ。たまに風に吹かれて彼女の作品を読みたくなる時がある。
 読み返して改めて思ったのはやはり短編の方が上手い作家さんだという事だ。
 唯川さんの作品は長編だとなんとなく間延びした感じを受ける。もう少し寸法を短く出来るんじゃないかと思う事が割りとあった。
 それが短編だと上手いこと寸法にまるっと収まって良い感じになる。

 この短編集の中ではラストの「帰郷」が一番印象に残った。
 まず構成の上手さがある。
 この作品以外の短編はオチが割りと苦いというか毒があった。だけどこの作品のラストは唯一光を感じさせるというかホッと出来た。その対比がお見事。
 初出部分を見たら雑誌に発表された年月日もバラバラのようで、まあよく上手い具合に風合いの似た作品をビックアップしそれらが効く形になる作品をラストにしたなと思った。こういう部分に職人技を見てニヤリとしてまう。

 人間関係で一番難しいのは自分との付き合いだなと思った。他人よりずっと難しい。 
 千沙の自分と折り合いのつけられない部分が昔の自分を思い出させてくれた。
 彼女は整形をし美貌も手に入れて今は華やかに自由で自分の思うがままに生きていた。だが何故かどんどん幸せから遠ざかる自分に気づいてもいた。
 そんな幸福から取り残された感のある千沙が途方にくれている姿が切なかった。
 千沙の幸せになろうとして幸せになれると思って信じて進んだ方向にそれが見つからず、捨てたはずの故郷で不幸だとばかり思っていた母親が得ていたかもしれないというドラマはなんか人生の機微を感じさせてくれてた。

 皆、幸せになれる、幸せになろうとして頑張っていてもその方向に幸福がない時がある。 
 幸せの方向どっちに向いているのかは神様の方位磁石でもない限りよくわからないだろう。
 でも自分を本当の意味で大事にする事、自分を好きになる事が出来れば間違った方向には行きにくいと思う。

 何かを好きになるというのは何も他人や物に対してだけで出なく自分にも向けてあげたいと思う今日この頃。
 
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| 唯川恵 | COM(4) | TB(0) |
2010-04-21 (Wed)


  カメラマン喜多川が生涯で出会った様々人との断片を綴った短編集

「ストロボ」
 カメラマンとして成功した喜多川はある日かつての師と再会する。
 黒部勝人は女性を取らせたらピカ一と言われ売れっ子カメラマンだったが今は全盛期の面影も無くなっていた。
 喜多川は彼に対してある一件で後ろめたさを感じており苦い再会だった。
 どうやら黒部が時流に残されたのは8年前から女性を撮らなくなったのが主な理由のようである。
 ある時喜多川の事務所へ愛人との密会写真が送られて来た。そしてそれは黒部が送って来たものであった。
 口止め料を請求する黒部には事情があり、またそれが故に彼の最大の売りであった女性を撮るのを辞めたのだが。。。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
真保さんは「隠れロマンチスト」だと思っている。
 割と色んな題材をしっかりと勉強されて骨太な作品を書かれる方だけど、読んでいたら男性作家のロマンチズムが苦手な私のセンサーにビビッと来る時がある。でも基本は上手く作品の「色」に仕上げているのでそんなに気にはならない。
 この短編集はそのロマンチズムの安全運転という感じの色合いの作風が多く、きっと真保さんはこういう作風を書いてみたかったんだろうなあという空気が伝わってくる。
 時折アクセルを強く踏んで「おーい!!走ってるぞおー」と突っ込みたくなるがギリギリ私的に許容出来る範囲のロマンチズムで踏ん張ってくれている(なんかエラそう)。
 
 この短編集は喜多川光司という1人のカメラマン人生の軌跡を50代、30代、20代と遡る構成になっている。青春時代から熟年時代という流れではなく、先祖がえり的な逆の流れでの構成の意図が今イチ掴めないが(正直個人的には20代→50代の順番の方が自然な流れでより深みをもたらしてくれる気がした)、年齢事に違う立場や周囲の状況等によって抱えている思いや気持ちの違いに読み応えがあった。

 前から凄く思っていたのは「写真」という分野の芸術は特殊である。例えば絵画、文学、音楽等は基本は『無』から『有』を生み出す。
 しかし写真は被写体というものが存在していてそれを一瞬で切り撮って行く。基本は被写体ありきで完全『無』からの芸術ではない。そこが芸術における写真という分野の特異性であり、それが故に対象と相互作用や化学反応が起きて面白い。
 勿論同じ被写体を私とアラーキーが「写ルンです」で撮っても仕上がりは雲泥の差がある事は承知である。
 私が「りんご」を撮ってもそれはただの「りんご」としてしか写せないと思う。
 でもアラーキーなら「りんご」を「りんご」以外の存在として写せると思う。

 この短編集を読んでいると撮る側の格闘というのが伝わってくる。
 無から生み出されるものではないからこそ対象に肉薄する力が必要だ。その一枚皮をめくった先にある何かを一瞬で写し撮っていこうとする凄みを感じた。
 多分写真は撮る側のコミットメント能力とそれを支える人間としての地力が一番問われる芸術なのかと思う。

 でも骨太作品が好きな私にはロマンチズムの安全運転の真保さんは少しこそばゆい感じがする。  

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| 真保裕一 | COM(4) | TB(0) |
2010-04-18 (Sun)
 今カウンターを見ましたら、とっくに10000HITを超えていました。
 ありがとうございます。
 ご訪問くださる方、コメント下さる方、本当に感謝です。ここまで続けられるとは思っていませんでした。
 感慨深いです。
 これからもボチボチ頑張りたいと思いますのでよろしくお願い致します。
| ヒトリゴト | COM(6) | TB(0) |
2010-04-17 (Sat)
   

謎解き短編集5編

 「第二の希望」
 楠木真智子の第一の夢は器械体操でオリンピック選手になる事であった。
 残念ながら自身はその夢を叶える事は出来なかったが一人娘の理砂は天才的な器械体操の才能を持っており、娘に叶えられなかった自分の夢を託した。
 その為に夫とも別れ母子2人の二人三脚の生活で頑張っていたが、ある時悪夢に見舞われる。
 恋人の毛利が真智子の家で何者かによって殺害されてしまう。。。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 東野さんの加賀恭一郎シリーズ結構好きである。
 私の中で加賀刑事は何故か地味な印象がある。一応彫の深い顔立ちで長身なのでそれなりに見栄えはするタイプなのだろうけど。
 ただ他のシリーズの湯川博士のような華やかさや存在感はない。多分間違っても湯川博士のように福山雅治さんのようなイケメンが演じるという事は生涯縁はないだろう。
 どうも作品の中でアクが足りないというのかオーラを地味に消している人という感じか。そのアクの足りなさが良い意味で作品に見せ場を与えているような気がする。
 湯川博士だと彼のカラーに染められているピースはどうしても出てくるが、加賀刑事だと作品世界を侵食することなくピースに納まる。
 
 この短編集は刑事コロンボ形式で犯罪が起きていてその真実を加賀があぶりだして犯人を追い詰めていく。彼がまるで詰め将棋のような形で犯人をに迫るのがツボを突く。
 たいていの人間なら見落とすであろう若しくは気にも留めないだろうという些細な事柄を丹念に拾って事実を追っていく。私のようなズボラな人間には到底真似が出来ない。そしてあぶりだし方がどれも「なるほどなあ~」と思わせる。
 本格ミステリのような爽快的な謎解きとは違うが「追い詰め方」にカタルシスを感じさせてくれる。

 取り上げた「第二の希望」は切ない。
 親が子に自分が果たせない夢を託すのはよくある事だけど、同じような夢を目指していたときにふと余所見をしてしまった彼女。それが故の罰。 
 どの作品も悲しい事情を抱えた犯人達だけどこれは犯行の動機がより悲劇であった。その悲劇が故に一層作品の質が高められたとも思うが。

 この作品に出てくる犯人は犯罪を隠すために嘘をつく。誰もがごく普通の人間だが足を踏み外してしまい、そしてだんだんとその嘘に飲み込まれていく。 
 加賀刑事は立場上犯人達を追い詰め役になるが、その嘘を紐解いていく様は解放のような気もする。
 真の悪人はおらず自分の守るべきものを守る為の犯罪と言っても良いかもしれない。
 それが故に加賀刑事は犯罪自体は追い込んでいくが、その罪を犯した犯人に対しては追い詰めるのではなく気持ちを慮る辺りが「男やのお」と思う。

 でももし映像化されるのなら加賀刑事はどの俳優がいいだろうと想像して10分位楽しんだ。    

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| 東野圭吾 | COM(8) | TB(1) |
2010-04-14 (Wed)


 乙武さんは先天性四肢切断という障害を持って生まれた。原因は不明で生まれつき手足がない。
 だが彼は自分の障害を個性として認識し、理解のある両親とたくさんの仲間達に囲まれて明るく楽しく日々を生きてきた。
 不真面目で、頑張っていない、わがままな障害者。
 そんな乙武さんの誕生から早稲田大学時代の日々をユーモラスに、そして本出版後の苦悩を綴った社会人時代のエピソードを加えた超個性的な姿を持った青年の物語。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「五体不満足」というタイトルを見た時そのショッキングさに「やられた」と感じた。と同時に「上手いタイトルだな」とも思った。
 普通親御さんが我が子誕生の時に願うシンプルな思いは五体満足に生まれてきて欲しいというものだろうけど、その当たり前ではない乙武さんの障害(個性)をこれ程端に表現しているタイトルに凄いインパクトを感じた。
 このタイトルだけでこの本がどういう趣旨のものかが伝わってくる。GJである。
 
 誕生した乙武さんが母親に対面出来たのは一ヵ月後。出産直後の母親に手足のない赤ん坊と対面させるのはショックが大きすぎるだろうという病院側の配慮があったようだ。
 対面の日はショックの為に倒れるかもしれないと空きペットまで用意されたらしいが、母親が手足の無い乙武さんとの初対面で口にした言葉は「かわいい」という光を持つ言葉だった。
 私は決して運命論者ではないけど、この言葉こそがその後の乙武さんの人生の輝きを象徴しているような気がする。
 Amazonの解説を書いている方の「この下りは神話でありそれを支えとして彼は強い自己肯定能力を育んだ」(抜粋・要約)という言葉が秀脱。 
 はじめの物語は本当に大事だ。ただ必ずしも幸福なスタートを用意されているわけではないのだろうなとも思う。
 障害者の手記というのは概ね「障害を克服して」等の乗り越えて的なものが多い。
 でもこの本はそうじゃない。障害があってそれが故に不便な思いをしてはいるけど、どこにでもいるようなごくごく普通の青年が日々の生活の中で楽しんだり、悩んだり、苦しんだりするそういった普通の青年の物語という感じを受けた。
 乙武さんが子供時代、彼と野球やサッカー等で遊ぶ時は「オトちゃんルール」なるものを作り当たり前に一緒に遊んでいたそうだ。彼の周囲の人達はどうしても乙武さんに出来ない事があれば「やってあげる」のではなく「当たり前」の事として手助けされている。
 それ故ご自身が障害者である事を自覚する機会も必要もなかったという言葉が凄い。読んでいて障害というのは個性なんだなあと再認識させられた。 
 乙武さんにとって「障害」というのは乗り越えたりするものではなく、個性として認識されているものなのと思った。
 だからこそ「障害は不便です。だけど不幸ではない」という言葉を伝えられるのだろう。
 勿論この本には書かれていないが全く苦悩がなかったわけではないんだろうとは思う。
 不幸というのは降って沸いてくる場合もあるけど、通常は不幸な状況にあるのは自分が不幸を選択しているからだと思う。個人的に幸福も不幸も基本は選択するものだと思っているので。
 不幸な自分を選択しなかった乙武さんはあっぱれ!!!である。

 実はこの作品を読まれた方の「私も前向きに生きよう!!!」と感動したという意見を読むとなんからしくないなと感じる。
 「感動」という思いが心の目を曇らせ、この本に書かれている大事な部分を見落とさせてしまう気がする。
 この本は前向きに生きる力を与える本というより、こういう障害者もちゃんといるんだよ、障害を持っていてもこういう生き方もあるんだよというの伝えてくれる本ではないかと思っている。

 ちなみに乙武さんの顔をテレビで始めてみた時「竹野内豊」に似たイケメンだと喜んだ私である。

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| ノンフィクション | COM(4) | TB(0) |
2010-04-11 (Sun)
 

  人工授精で生まれてきた少女アミは、本当の父親である精子ドナー307を探している。一方、アミの異父兄である知的障害者のタクヤは、「僕のうさぎ」を探し求めている。2人はある夏の夜、深夜バスで龍飛岬に向かい、診療所を営む高森を訪ねた。高森こそは精子ドナー307であり、いつしか2人は高森夫妻と共同生活を始めるが…。
桜井亜美の同名小説を、ビデオクリップ出身の映像派、下山天監督が映画化した異色青春ファンタジー。一風変わったアングルや色彩感覚に、この監督ならではの意気込みを見いだすことができよう。竹内結子と安藤政信、この若き主演2人がくり広げる、繊細かつ慈愛に満ちつつも、どこか乾いた透明な関係性も印象的である。
 >-Amazonより






 記事でも何度か書いているが原作本の映画化はなかなかになかなかな問題があると思う。
 やはり原作という一つの完成図があるとそれをどう映画では表現するかは永遠の課題だと思う。
 原作に忠実に作るか、それとも映画独自の作品世界をつくるか。
 この映画「イノセントワールド」を見て、原作本の映画化に関してひとつの良い見本を魅せてもらったと思っている。

 この作品は以前の記事でも紹介したPTAのおっかさんは立ち入り禁止 「イノセントワールド」を映画化したものである。
 売春、近親相姦等のかなり際どいキーワード盛りだくさんのお話しで、それをあの清純派(当時)の竹内結子さんがどのように演じられるのか期待と好奇心にそそられて鑑賞した。

 驚いたのがストーリーが原作と全然違うのである。
 勿論映画化に当たりある程度原作を省いたり違う肉付けを付け加えたりするが、この映画は人物設定と本当に大筋のあらすじだけはそのままで、ストーリーは全く原作には無い展開になっていて見ながら、
 「おおい、どこへ行くんだあ」
 と思った。
 これだけ原作と違うストーリー展開の映画は初めて見た。下衆な野次馬根性が思いっきり肩すかしをくってしまった。

 でも本当に本当に不思議なんだけど映画は原作と全然違う代物なのに、原作の持つ音色をちゃんと映画も奏でているのが凄い。
 ちゃんと原作本の要となる色合いが映画で表現されているのは、アミとタクヤの「ふたりぼっちの世界」が上手く表現されているからだと思う。
 こういう映画化もありなんだなと思わされた。
 要の部分さえ押えていればあとは野となろうが山となろうが御の字に出来るのだと。

 ちなみに余談だけど原作本を読んだ時にアミの実父である男性役は豊原功補さんがピッタリだなと思っていたら、なんと映画を見たら彼がその役を演じていて自分の中では祭りだった。

 なかなかになかなかの問題はあるけどこういう面白さが発見できるので映画化された作品を見るのは楽しい。


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| 映画 | COM(2) | TB(0) |
2010-04-10 (Sat)
 

 池袋の有名なトラブルシューティングと言われる真島誠。
 きっぷの良い母親が営んでいる果物屋の店番をしているマコトに色んなトラブルが舞い込んでくる。彼は普通の今時の若者であるが、物事の本質を直感的に見抜きトラブルを適切な形で片付ける能力に長けていた。
 今回の依頼人はイケメンの中国人リン。彼は中国から働きに来る研修生のお目付け役であった。
 中国から日本へ研修生という名目で就労派遣された250名の内1人の女性が脱走する。一週間以内に見つけ出さなければ全員が強制退去の上向こう三年は派遣を禁じられるという重いペナルティがあった。
 マコトは中国の重い現実に驚きつつも依頼を引き受けるが。。。

 他三篇


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「池袋ウエストゲートパーク」はずっと読み続けているシリーズである。
 この作品を読むキッカケとなったのが長瀬智也さん主演のテレビドラマ「IWGP」が面白くて原作本に興味を持ったからである。
 「今時の若者」というお品書きがどういうものなのか接する機会がないのでよくわからないけど、彼等はこんな体温なのかなと納得させられるような小気味の良い面白さがある。
 クールでありながら飛んでいるようでありながら不可思議でありながら、根っこの部分は今も昔も若者というのは変わらないのかなとも思う。
 そういう部分を上手く現代風に巧みに仕上げているシリーズである。

 たが、読み続けていくうちにこのシリーズが少々「スィーツ」的になっていくのが微妙にうんざりしつつある。
 石田衣良さんは合う合わない作品があるものの基本的に好きな作家さんである。
 ただ最近なんというのだろう。。。彼の作品は甘くなっているというか甘ったるいというか、このシリーズも砂糖の量が徐々に増えているような感じがした。
 私はどちらというと辛党派なので甘いと胸焼けを起こしそうである。
 でもこの短編だけはその「スィーツ」さが上手く作品に組み込まれていた。

 中国と言えば現在は勢いのあるお国だけど実情はやはり地域的な格差がかなりあるんだなと知った。
 今もてはやされているようなバブル好景気の恩恵にあずかれるのは都市部だけであり農村は厳しい実情のようである。
 だからと言って自由に好きな場所へ行って好きな仕事に就けるわけではなく、農村部に生まれればまず都市部へ住む事は不可能らしい。同じ国内であっても貧富の差は激しく貧しい農村に住む人々は稼ぐ事の出来る黄金の国日本へ働きにやってくるのだ。

 結構このシリーズは自分では知識で軽く知っていた程度の詳しい知識が書いている場合が多く「知ってるつもり?!」的な部分が有りためになる。

 すったもんだの挙句「スィーツ」な結びだけどこれが美味な甘さだったのが嬉しい。いつもなら「ケッ!!!」と本を閉じて悪態を突きそうだけどこの度はスンナリ納得出来た。
 現実はこんな風に上手くは運ばないだろうけど、それでも物語というフィールドならこういうおとぎ話的なラストでもいいじゃないかと思わせてくれた。
 多分今回の「スィーツ」が物語の風景として良い図柄に仕上がっているからだと思う。

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| 石田衣良 | COM(4) | TB(0) |
2010-04-07 (Wed)
 

  丸の内のオフィス街にある小料理屋「ばんさい屋」。
 そこには笑顔を絶やさない控えめな女将と、何となく懐かしい味の白いご飯が欲しくなる「おばんさい」があった。
 店に集うお客達の人間模様が抱える謎を女将が鮮やかに紐解いていく。
 殺された常連客の最後の行動を推理する「桜夢」、子供の毒殺未遂事件「愛で殺して」等の幾つかのミステリー連作集でありながら、且つ女将自身が隠してきた過去が話が徐々に明らかになってくという仕掛けも持った傑作集。

 「聖夜の憂鬱」
 ばんさいやの12月。
 長崎真奈美は二ヶ月前からお店に顔を出し必ずかぼちゃの煮つけを注文していた。
 だがたまたまその日はかぼちゃの煮つけが売り切れ、来店した真奈美は代わりにお酒を注文したがあまり幸福な飲み方ではなく女将はそれが気にかかった。
 偶然街中で彼女と会った女将はこの前のお酒を飲んだ事情を聞かされる。
 真奈美が幼い頃に父親がイブの夜ホームから転落して亡くなっていた。その日父親が彼女へのクリスマスプレゼントの為に買った赤い大きな箱は盗まれてしまい遂に真奈美の元へ届く事はなかった。
 それ故真奈美はクリスマスを憎んでいた。だがそんな彼女にある奇跡がもたらされる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この「ふたたびの虹」は柴田さんの作品の中で一番自信を持って他人に勧められる作品である。
 勿論彼女は他にもたくさん秀作はあるのだけど割と好き嫌いにわかれそうな色を持った作品が多い。
 だがこの作品はそういった色合いはなりをひそめて万人受けしやすい作風に仕上がっている。 

 「聖夜の憂鬱」の主人公である真奈美はクリスマスに起こった不幸の為に、みんなが幸福に浮かれるクリスマスを憎んだまま大人になってしまう。
 だがクリスマスを楽しい日に変えられる出来事が起こる。
 ネタバレになるので控えるが真奈美にもたらされた奇跡は実は女将の粋な計らいであり、それが心憎いのである。
 この作品を読んで結局の所物事に対する事実は一つだけど、真実というのは幾つかあっても良いのではないかと思っている。
 それが事実かどうか関係なく、その人にとっての真実であればそれが真実いいんじゃないのかなと感じた。
 事実は変えられないが、自分の思いは変えられる。 

 こういった「ばんさい屋」に集う人々の人間模様の面白さだけではなく、その時々の旬の食材を使った料理を上手く作品に絡めている。それがこの作風を支える味になっている。
 桜飯、マツタケの土瓶蒸し、たんぽぽの根のきんぴら等の美味しい食べ物の描写がぞくぞくと出てくる。今こうやって書き出しても美味しそうだけど、読んでいても本当に美味しそうであった。
 食べ物の場面を美味しく描くのは簡単なようで実はなかなか難しいのではないかと思う。単に状況描写だけではお腹は空けない。筆力が感覚に訴える部分を持っていないと読む者が「お腹空いた」にはならいだろう。
 ああ柴田さんてやっぱり力のある人だったんだなと再認識させられた。 

 美味しいものを食べると幸福感に包まれる。その幸福を思う時やっぱり人って食べて生きていく生き物だなと思う。
 だからこの作品を読んでいるとこんな店があればなあという気持ちがふつふつと沸いてくる。
 友人ではないが楽しい一時を共有し合える顔見知りと、美味しい食べ物と、心地よい空間。おまけのようなささやかなでもちゃんとした幸福感を感じさせてくれるお気に入りの店。お店に通う登場人物達が本当にうらやましいと思った。

 この作品は結構珠玉の言葉が盛り込まれている。下の言葉もイイ。   
 「人の一生は、その中にいつも幸福と不幸を取り混ぜて持ち合わせ、泣き顔と笑い顔を忙しく交互に繰り返し、やがて時が経ち、どちらの時間がより長くても、最後には、黄昏れてゆく陽射しの中でこうして横たわってその時が終わるのを待っている。
自分の中にその時が訪れた日、自分のそばにこうしていてくれる人を持っていられたなら、それほど完璧な一日はたぶん、ない。」

 人生色んな事があってもゴールに辿り着けば全てがひとつになって受け入れて最後を迎えられるのだろう。
 そう考えると悪くないもんだなと思う。 

 ダイエット中以外の人にはお勧めである。


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| 柴田よしき | COM(8) | TB(0) |
2010-04-03 (Sat)
   

 アンバッピーな短編集
 「おねえちゃん」
 美保子は姪の理奈に相談事があると自宅へ呼ばれる。
 尋ねてみると夜の9時を過ぎているのに自宅には高校生の理奈しかおらず、両親も姉の姿も見かけない。
 美保子は不審に思いつつも理奈の相談事に耳を傾ける。その内容は自分は親から嫌われているというものでいつも自分ばかりに厳しい両親に対する不満であった。
 そして理奈は両親の話の盗み聞きから自分が白血病であった姉のドナーのとなる為だけに生まれた存在で有り、それが故に姉の病気が治った以上は自分は不必要な存在でモノにしか過ぎないから愛されなかったと語る。
 否定する美保子に理奈から衝撃の現実を突きつけられる。。。。

 「玉川上死」
 玉川で高校生達が死体の真似をしてどこまで行けるかというゲームの賭けをしていた。そしてその最中に仕掛け人である2人の高校生が何者かによって殺される。
 殺された茂野達弥の母親の信子は打ちのめされたいたが、そんな信子の元へ一緒にゲームをしていた秋山少年が毎日のように仏壇に手を合わせに来ていた。
 元気な秋山少年の訪問は我が子を亡くしたばかりの信子には正直憂鬱であっが、ある日たまたま達弥の部屋で彼の奇妙な光景を目にする。
 そして夫にその事を相談すると彼から予想もしなかった事件の推理を聞かされる。それは犯人逮捕を一日も早く願っていた信子にとってはつらい事実になるものであった。


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 歌野晶午さんの作品は失礼ながら私にとっては「つまみ食い」カテゴリーに分類される作家さんである。
 絶対読む作家さんではなく、他にお目当ての作家がいなければ図書館から連れて帰るという感じである。
 でも歌野さんは中々の実力を持っており、この作品は特にその才能が結晶化された粒揃いばかりと言っても過言ではないと思う。

 まず表題の「ハッピーエンドにさよならを」というタイトルが、
 「技あり!!!」
という感じて決まっている。タイトルで既に一本取っている。
 このタイトルの短編作品はなく短編集の総タイトルであるがタイトル通りハッピーエンドはない。
 「アンハッピー満員御礼」
 と、どの作品もと苦すぎる結末が待っている。でもそれでいながら読み終えた時に不快感よりも読み応えを感じさせるのは上手いなあ~と思う。

 今回は絞りきれなかったので二作品をピックアップした。
 「おねえちゃん」はラストがとにかく痛くて、あまりにも光を感じられない結末で驚いた。のっけからパンチの効く作品を持ってきたよなあと妙に感心した。
 親に愛されていないというのは思春期に親と仲たがいしている時によく持つ感情だけど、それを上手く白血病のドナーというモチーフと絡めて意外性のある着地点へと辿りつかせている。このタイトルの真の意味がわかった時悲しかった。 
 結局の所親子の愛情のボタンの掛け違いなのだけど「愛情」というのは取り扱い要注意の劇薬でもある。
 目に見えない「愛情」を「愛情を示す」という形に変換してあげるのはどんな関係性であっても大事だなと思う。 

 「玉川上死」は意外な事件の真相にカ久々のカタルシスを感じた。
 「題材の選び方+組み立て方+=ラストの完成図」という図式が見事だと思う。
 最初に見せられる完成図の影に真実と思うわれる完成図があり、それを見抜くのが殺された被害者の両親というのミソとなっている。
 単なる遊びのゲームに潜んでいたとんでもない悪意。だがその悪意の源には殺された被害者の少年が関係しているという皮肉。多分ラストの数行のオチがこの作品の作品性を高めている。

 どの作品も唸らされる秀作ばかりで外れくじなしのくじ引きみたいである。またオチも意外性があるものが多く楽しめる。
 アンハッピーは苦いけど、たまにつまみ食いするのなら悪くないと思った。

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| 歌野晶午 | COM(7) | TB(0) |
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