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2009-05-31 (Sun)
 年をとったな。。。。と最近よく思う。

 でも年を取る事自体は嫌いではない。
 年を重ねる事によって何かを得て、そして削ぎ落とし、それまで見えなかった見ようとして来なかった「こと」が見えてきて、若い頃よりは生きやすくなっている部分もあるから。
 
 が、年を取ると「気力、体力、精神力」が落ちるのである。。。。。

 若い頃だったらそうでもなかった事が今は結構こたえてしまう事がある。
 例えば心の病も昔の方がずっと重かった。今は昔の症状と比べるとホント天国である。
 それなのに時折昔よりヤバイなと思う瞬間がある。
 「自分は弱くなったのかな。。。。」
 そう思っていた。

 同年代の友人にそういう事を話していたら、
 「それは年を取ったからだよ」(太字にしてしまう)
 と言われてしまった。。。。

 「ああ、そうですか。年を取ったせいですか 」(やっぱり太字にしてしまう)
 年を取ったせいと言われたらなんも言えん。

 でもやはり年を取ったなとしみじみ思う今日この頃。
 そろそろ自分を心身ともに労わろうと思っている。


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| ヒトリゴト | COM(8) | TB(0) |
2009-05-30 (Sat)
   

 高村光太郎とその妻智恵子。 2人の愛は伝説的に語り継がれている。

 この作品では智恵子に焦点を絞り、彼女の生い立ちからやがて光太郎と出会い、結婚、そして統合失調症の果てに結核で亡くなるまでの軌跡を追う。
 著者の鋭い切り込みを軸とし「智恵子抄」で描かれた智恵子ではない「智恵子」を浮き彫りにしている。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私が「智恵子抄」に初めて触れたのは、多分高校生時代の教科書に載っていた「レモン哀歌」。
 読んだ時の感想は「レモン噛んだらすっぱいだろうなあ~」 という情緒もへったくれもない女子高生だった。

 数年後にこの本を手に取ったのは、 
 「伝説的なラブストーリーの裏が見たい」  
 というやぼな気持ちがあってこの本を読み始めた事を告白しておく。

 ここに描かれている智恵子さんは実際の彼女ではなく、津村さんがこだわり続けた「智恵子像」ではあると思う。でも実際の智恵子さんはこんな人だったかもしれないという説得力のある描き方である。

 私が興味深かったのは智恵子さんが精神に異常をきたしたのは彼女が光太郎の求める理想の女性像を演じるのに疲れ、光太郎の圧倒的な想像パワー、彼の芸術家としての「我」によって智恵子の創造意欲や自負が踏み潰されたからだという言葉である。 

 私はかなりの部分でこれは当たっているのではないかと思う。

 確か光太郎は彫刻家で智恵子さんは画家である。 
 物を作るものは強力なエゴを持っている。その人間同士がひとつ屋根の下で暮らすというのは色々大変だと思う。
 著者自身もご夫婦揃って創作に携わっている者として、
 「2人の力が拮抗していけば身近なライバルであり、不均衡であれば力のある者が無意識に弱い方を潰してしまう」 
 と言っている。

 だからと言って光太郎が残酷な人だったとは思わない、智恵子さんを確かに愛していただろうし。
 でも彼はあくまでも「光太郎」だったのだ。
 彼という視点からしか物事を捉えられなかったのだと思う。

 おとぎ話と違って現実の物語には必ず「影」がある、 通常は省かれているけど。
 でも私はその「影」に失望したりはしない。むしろその影こそに息吹というか醍醐味を感じる。
 きれいだけの色だけではなく、暗い色でも織り上げられている物語だからこそ現実なのだ。

 高村智恵子さんはかなりの完璧主義者だったらしく多分その事も病因の一因だと思う。真っ白な画布を前に何時間も座っていたという話しだし。
 その彼女が精神に異常をきたしてから作られた貼り絵は高い芸術性を持っており本当に皮肉である。
 私はその画集を持っているけど、シンプルでありながら、装飾性豊かであり、あらゆるものが削ぎ落とされたようなすがすかしさを感じる。
 精神を病み自分という「自己」が崩壊した事によって、自分のこだわりから解放されたんだろうなと感じた。
 心を病む事がなければ生み出される事のなかった作品だというのは切ないけど。

 また久しぶりに「レモン哀歌」を読んだ。当然だけど高校生の時とは全く違う感想を持った。
 その違いをしみじみ噛み締めた時、あの頃から随分長い年月が過ぎたんだなあと思った。

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| 津村節子 | COM(4) | TB(0) |
2009-05-27 (Wed)
   
 
 人魚の肉を食べ不老不死となった湧作と真魚。2人は終わる事のない旅を続ける。
 その旅の途中はぐれた真魚は交通事故で死んでしまう。そして真魚は人魚が眠るという神無木家で目を覚ますが、そこは年老いた老婆と白髪の若い女性が住んでいた。
 だが2人は双子であった。白髪の若い女性は人魚の生き血を飲んだ為に壮絶な苦しみの果てに右手もなりそこないになってしまう。
 真魚を探しに湧作も神無木家を訪れるがそこで様々な人間の葛藤が繰り広げられる。

 永遠の命の悲しさと切なさが綴られた「人魚シリーズ」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   高橋留美子さんが後年語られる存在になった時、代表作としてあげられるのは「うる星やつら」や「犬夜叉」、マニアな所で話題になるのは「めぞん一刻」辺りだと思う。
 恐らくこの「人魚シリーズ」が取り上げられる事はあまりないと思う。

 それでも高橋さんの作品の中ではこの「人魚シリーズ」は私の一番の好物である。
高橋さんの作品は「うる星やつら」とかに見られるようにハチャメチャギャグというか、シニカルギャグというかそういうノリのものが多かったので、この作品を読んだ時はそれまで読んできた作品の世界観とのあまりの違いに驚いた。特に「うる星やつら」を読んだ後に読んだので、
 「えっ、高橋さんですか?」
と表紙の名前を念の為に確かめたほどだ。
 (実は登場人物の湧作が諸星あたるに見えて仕方がなかったのも遠い記憶である。)

 だからといって この作品がシリアスというわけでもはないが、この作品に流れる空気はテーマのせいもあって物悲しさがある。
 違う物語の世界のドアをいとも簡単に開ける、高橋さんの作り手としての才能に感嘆してしまう。
 

 人魚の肉を食べた為に湧作も真魚も不老不死となる。
 その彼の願いは「老衰」というささやかな願いを叶えるために旅を続ける。
 ただ人魚の肉を食べた全員が不老不死になるのではなく、なれるのはほんの一つまみ。あとは死んでしまうか「なりそこない」という文字通りの化け物になってしまう。
 もうこの設定だけでシビレさせてくれる。

 シリーズの中でも恐らくこの「人魚の森」が最高傑作だと思う。人間模様が良く出来ている。
 復讐の為に、愛する者の為に、生きる者達。
 その渦に湧作も真魚も巻き込まれる。

 この作品を読んで思ったのは、よく昔のえらい人が「不老不死」を願って色んな悪あがきをしていたけど、不老はともかく不死は決していいものではないよなと思う。
 死ねないのは悲しいよなあと思う。自分の愛する者全てに置いて行かれるのである。
 それに何があっても死ねないというのはしんどいと思う。
 物事は終わりがあるから悲しいけど終わりがあるから救いがある のだと思う。

 私は100歳までは生きたいと思うけど、不死になりたいとは思わない。100年も生きればそれで十分だ。
 2人の終わりのない旅は「永遠の命」が故に死を見続ける旅にもなる。

 オチになってしまうが「湧作も真魚もいい年齢の時に不老不死になったな」 と思う。
 やっぱりあまりに若い時や逆に年取り過ぎてから不老不死になったらつらい。。。。

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| マンガ | COM(5) | TB(0) |
2009-05-24 (Sun)
 村上さんの作品の中で私の最愛は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だけど、村上春樹さんの代表作と言われている「ノルウェイの森」も好きだ。

 この本を初めて読んだ時「やっとこういう本が出たのか」と思った。
 何が「こういう本」なのかと問われたらむちゃくちゃ長くなるので省くが、この作品の映画化が決まり配役が決定した。

 主要男性群の配役は失礼ながら松山ケンイチさんしかお名前しか知らなかったけど、写真を見る限りは各々イメージ通りではないにせよ「あ~見てみたいな」と思わせるナイスなキャスティングだったので満足である。

 松山さんは「僕」と同じ何かを持っている感じがした。
 「僕」が自身のウェットな所を表面のドライさというかクールさで覆っている部分が松山さんは透けて見える感じがするけど、スクリーンに映える雰囲気というかオーラを持っているのでこれまた満足である。

 が、女性群に関しては「あれれれれれ」である。
 多くの人が言っているけどやはり直子を演じるのが菊池凛子さんではイメージが違い過ぎるような気がする。
 私にとって直子は「はかなさ、脆さ、危うさ」の三拍子が揃った女性のイメージを持っていた。三拍子揃わなくても、せめて「はかなさ」は欲しい。。。。。
 菊池さんは見たイメージは強い意思から来るパワーというか、「直子がこれを持っていたら病気にならんだろう」というものを感じさせる。 小耳に挟んだところエッチシーンを体当たりで出来る女優は菊池さんしかいなかったからこの配役になったと聞いたが、もしそうならエッチシーンはばっさり切ってもいいから直子のイメージに近い人を選んで欲しかった。

 勿論菊池さんは演技力のある方だとは思うけど、やはりその人が醸し出す雰囲気というのは演技力で補えるのか疑問である。
 個人的には二十代の頃の中谷美紀さんがイメージに近いと思う。ただ現在の時点で直子にびったり来る女優さんは思いつかない。
 緑役の水原希子さんは写真見る限りではそんなにイメージが違うとは思わないけど、演技未経験で大丈夫なのだろうか。

 女性群は心配だ。。。。。

 某掲示板で「ダンス ダンス ダンス」を映画化するなら五反田君は谷原章介さんが良いと書き込みがあり思わず「ナイスなセンス」と思ったけど、この名も無き人だったら女性群の配役は誰を選んだか興味がある。
| ヒトリゴト | COM(8) | TB(0) |
2009-05-23 (Sat)
   

 目のみえないミチルはひそやかな孤独な中で一人暮らしをしていた。
 そんな変化の無い日常で彼女の住む世界を大きく変える出来事が起こる。
 それはある殺人事件の犯人として追われるアキヒロが、ミチルの部屋へ逃げ込み居間の隅に隠れて暮らし始めるからだ。

 誰かいる事に気づきながらも恐怖からしらんぷりするミチル。
 目がみえないから気づいていないだろうと思い込むアキヒロ。

 やがて孤独な2人は奇妙極まりない同棲生活を送りながら、お互いの「優しさ」に触れ、避けてきた「他人」との関わりへを受け入れていく。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~^~~
 私が乙一さんの名前を初めて聞いたのは「ダ・ヴィンチ」で彼を絶賛していた記事を読んだ時である。
 その時の印象は「ふ~ん、変な名前の作家さんもいるもんだなあ」という感じであった(そもそも名前が読めなかったよ)。
 でもその時は読んでみようとは思わず、数年後たまたま図書館でこの本と出会って読んでみようと思った。
 多分乙さんの作品に出会うべき時期に来たのだろうと思う。

 読んだ時私は、
 乙一様にひれ伏しました。

 なんていうのか、文章に人を引き付ける力があるというか、それは文章力があるという意味かと問われたらそういう意味とはまた違って、物語の世界にぐっと引き込むような説得力が文章にあった。読み始めてたちまち乙ワールドの虜になった。
 
 ミチルは「目がみえない」という障害の為に自分の殻に閉じこもり他人と積極に関われない。
 アキヒロは不器用な性格の為にこれまた世界と上手くいかない。
 孤独で寂しい2人が必然のように出会い、他者との関わりを恐れながらもそれでも受け入れて行く姿が繊細に優しく描かれていて、
 「頑張れ!!!2人共!!!」 
 と読んでいて心の中で何度もエールを送っていた。

 目の見えない女性の所に犯人が逃げ込んで奇妙な同棲生活を送るという設定は通常はあり得ないけど、事件があったから2人が出会ったというより、2人が出会う為に事件が起こったと思わせるような筆力は凄いと思う。

 傷つく位なら、上手くいかないのなら、一人で生きた方が良いとつよがりを言う気持ちはよくわかる。
 他者と関わらなければ寂しいけど、傷つかない。
 でも関わらなければ何も残らないし、何も生み出されない、何も無い。
 傷も生きている証なんだ思えるようになったら多少楽にはなった。

 2人が「他者」との関わりを恐れながらも「温もり」を知ると「相手」を求めずにいられなくなる過程は、人は何かを無くすよりも、無くしてはつらい物を得る時の方がずっと怖いんだなと思わせる。

 ラストで殺人事件の真犯人が暴かれるけど、「ああ良かった」とは思えず、切なさを残す。
 ミチルとアキヒロの2人の世界には光は射すけど、真犯人は暗闇の世界に取り残されたままになるからだ。
 「切なさ」の名手と言われる乙さんらしい〆だなと思った。

 この一冊が「乙一ワールド」の森へ彷徨う第一歩となった。

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| 乙一 | COM(10) | TB(0) |
2009-05-20 (Wed)
 

 写真家「天才アラーキー」こと荒木経惟さんが最愛の妻である亡き陽子さんを撮り綴った写真集。

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 荒木さんといえば女性のヌードを撮る「エロス」の写真家としての名が有名だけど、私にとっては「情」を感じさせる写真家さんである。
 「情」という言葉は荒木さんが良く使われる「センチメンタル」とも言えるかも知れない。写真集というものをほとんど食べない私が唯一好きな写真集がこの「陽子」である。

 タイトルが「陽子」だから当たり前だけど陽子さんの写真で一杯である。
 出会いの頃から、恋人時代、結婚生活、亡くなられた時までの膨大な写真がコラージュのようにちりばめられている。  
 その中にはヌードは当たり前、やっているシーンも、あれもこれもしているシーンも写っているものもある。
 平々凡々の私から見たらこれ程までに赤裸々にあらゆる場面を撮られる事はこっぱずかしい。
 でも写っている陽子さんはどれも幸福そうだ。愛する人から向けられるカメラ目線に自分の全てで応えている。
 そして荒木さんがどれだけ陽子さんを愛しているかその思いがひしひしと伝わってくる。 
 上手い写真とかきれいな写真とかそういうのではなく、ただ思いを感じる写真の数々。何気ない写真に何かがある。
 荒木さんはやっぱり天才なのだと思う。見た目は凄いあやしげなおっさんだけど。

 私は女性だけどこの写真集を見た時「もっともっと陽子さんがみたい!!!」と思った。何回も読み直した。でも全然飽きない。不思議だ。  

 でも陽子さんはもういない。それを前提で見るから、ここに写っている陽子さんが幸福そうであればある程なんとも言えない孤独も感じた。
 何故ならこの写真集はもう存在しない陽子さんを失った荒木さんの、愛情の深さを感じる分だけその喪失感の大きさを思い知らされるからだ。
 
 陽子さんが亡くなられてから随分経つけど、荒木さんの言葉を読むと今でも陽子さんを愛しているのがわかる。
 
 よく恋人を亡くされた方が相手の思いを綴った本を出版して、その数年後に再婚したり恋人を作ったりしたのを知ったら「涙をかえして!!!」と心良く思わない人が割りといるが、私は生きているなら生きている事を大事にしておおいに新しい恋をした方がいいとは思う。
 新しい恋をするのと亡くされた相手を忘れるのとは違うはず。
 忘れるなんて記憶喪失になるか脳細胞が破壊されない限りあり得ないと思う。思いが単に形を変えるだけ。

 でも荒木さん自身、陽子さんへの思いをどうしても消せないんだと思う。無理に愛し続けようとしているのではなく、もうその思いはどうしようもないんだと思う。

 この写真集を見ると亡くなった人をずっと思い続けるのは美しいけど、やっぱり悲しいと思う。 

 岡崎京子さんが解説で「人が人を好きになる事は哀しい」とコメントしている。
 そうなのだ、どんな形であれいつか必ずそれは死であれ、死でなくも、好きな相手とは別れる事になるそれはもう絶対に。
  最後、陽子さんが亡くなった日の外の青空のモノクロ写真で終わる。空の青さは何があっても変わらない、その変わらないものが余計に悲しくさせる。

 この「陽子」を見ると人を愛する事の幸福感と、同時に避け得ない人を愛する事の痛みを感じた。

 

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| 写真集 | COM(3) | TB(0) |
2009-05-16 (Sat)
   

 華やかなパーティーにこっそりと潜り込んだ後、煌びやかな成功者達と比べて何者にもなれていない現実の自分との落差にひどく落ち込む「僕」。
 やけ酒をしこたま飲んだ後目覚めた「僕」の前には奇妙な姿のゾウがいた。「僕」が自分を変えるために行ったインドで購入した神様の置物「ガネーシャ」だった。
 風変わりな神様「ガネーシャ」は、変わりたいと成功したいと願う「僕」に様々な課題を与えていく。
 「僕」は始めは疑いながら一見よくわからない課題をこなしていたが、こなしていく中で少しずつ変化していく自分に気づいていく。。。。


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 青春の必須アイテムというべき「自分探しの旅」をしていた頃、成功する為の本とか、願いが叶う本とかの類の本(以下この手の本)を「漬物石」になる位読んだ。
 それは勿論変わりたい成功したいという思いがあったし、今思えば「この手の本」を読む自分に少し酔っていたのかもしれない。。。。

 今は自分探しの旅をしているわけではないけど、たまたま図書館でベストセラー本だったこの本があったので、まあ興味本位で借りた。
 しつこいけど「この手の本」は 「漬物石」になる位読んでいたので、正直な所今まで読んだ本と似たりよったりだろうとナナメの目線で読み始めた。

 がっがっがっ、
 この本を読み終えた時の感想は、ためになったとか、ファイトが沸いて来たとか、勉強になったよりも、
 「おもろい!!!」 (所在地がばれますな)
 これが一番の感想だった。本当に面白かった。

 若干ネタばれになるけど、
「この手の本にハゲカツラが出てくるとは思わなかった」 
「ハゲカツラに感動するとは思わなかった」 

 読み物としても面白かった。その面白さはユーモアというよりも「お笑い」系である。べたなお笑いもあるのだけど、それすらも作者さんの計算なのかと思わせる。
 「この手の本」をこういう切り口から書いた作者さんには敬意を評したい。私が今まで読んだ「この手の本」の中には無いタイプだった、最上の部類に入る本だ。

 勿論だからといって、この本が今までの「この手の本」に書いていない特別な成功の秘密が書かれているわけではない。
 当たり前だけど成功本というのはどれも根幹は同じ事が書いてあって、節々が違うだけである。そういう成功する為のポイントもちゃんと押さえている。

 人はそんなに簡単に変われない。逆に簡単に変わる方がアブナイと思う。
 でも自分を変えたいと思うなら、一見関係ないように見える事でも、些細で小さな事柄を大事にしていく事なんだろうなと思う。
 そういうものが自分が望む世界の細胞を作るんだなと思う。

 久しぶりに「この手の本」を読んで思ったのは、成功している人、願いを叶えている人というのは、意識的にしろ無意識的にしろ成功する為の法則というかポイントというものを実践しているんだろうと思う。
 でもそれは特別難しい事柄ではなくやろうと思えば誰にでも出来る事柄で、
 「それを継続して実践している」  
 人が望みのものを手に入れられるのだと思う。「継続は力なり」なんだなやっぱ。

 それならば、今叶えたい願いがあるなら、やり方が正しければ、少なくとも間違った場所にはいかないと思い努力し続けるしかない。やり方が間違っていなければ続けていくしかない。間違っていないのだから、それは成功する為のやり方に沿っているのだから、必ず大丈夫なはずだ。それしかないんだろうなと思う。

 と、夜の暗闇の深さの中で歩き続ける事に若干お疲れ気味の自分に言い聞かせてみる。

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| 水野敬也 「夢をかなうるゾウ」の人 | COM(11) | TB(1) |
2009-05-13 (Wed)
 

 ゆみ子は平穏で幸福な生活を過ごしていたが、夫の自殺でいきなりその生活が断たれてしまう。
 3年後、彼女は幼い息子を連れて再婚をする。再び訪れた穏やかで平和な生活。
 その日々の中でゆみ子は心の中で死んだ夫「あんた」に話しかける。それはまるで死んだ夫へのレクイエムのように。。。。。
 そしてゆみ子は再婚先で再び幸福を掴んでいく。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 もう。。。この年になるのでそろそろ認めないといけないなと思う事がある。
 それは自分が、
 「オンチ」
 だという事である。
 だからなるべく人前では歌わない。
 でもテレビののど自慢大会で人が気持ちよさそうに歌うのを見ると「むむむむむ」の虫が動き、思わず一緒にハモりたくなる。でもガマンする。それなりに大変である。

 この作品を読んで何故か「むむむむむ」の虫が動いた。
 「幻の光」では、「生」と「死」、この2つが1つの曲として見事に演奏されている。

 いつもこっそり覗き見させて頂いているブログに「自殺した人と最後に会った時どんな感じだった?」というタイトルの某掲示板へのアドレスがあった。
 こういうのを夜中にこっそり読みふける自分は割りとあやしい奴だなと思う。
 このタイトルで1000近くの投稿を読んでいると、人生のほら穴というか深遠の一部をのぞいているような気分にさせられる。
 記事に共通しているのは自殺された人が死ぬように見えなかった事と、そして突然死なれた側は程度の差があるにせよ重い荷を背負う事になる。

 ゆみ子はその重い荷を背負ったまま再婚をする。幸せで平穏な日々だが、それでもその荷の重みを忘れているわけではない。時折その重みに耐えられなくなりそうになる。
 彼女の苦悩。。。。それは他人の憶測の及ばない、何の理由もみつからない自殺という形で愛する者を失った、その地団駄を踏むような悔しさと悲しさである。
 
 私も心の病で死にたいと思う事がある。でもそれは病気だからだ。
 しかし世の中には心の病でもなく、はたから見たら恵まれて幸福に見えるのにそれでも死を選ぶ者がいる。
 それは前夫の自殺の理由がわからないと苦悩するゆみ子に、今の夫が慰めのように呟く。
 「人間は、精が抜けると、死にとうなるんじゃけ」 
 というものなのかもしれない。
 人の中には吸い込まれると抜けがたい闇のようなものが存在しているのかもしれない。 
 自殺された人の中には多分その存在に気づいた人がいるのかもしれない。

 結局「生」も「死」もその個人に帰するものだと思う。決して強制も共有も出来ない。人のあやうさを感じた。

 読み終えた時、何故「むむむむむ」の虫が動いたかわかった。
 この作品は「演歌」を思わせるからだ。
 人間くさく、そして暗さの中にもどこか救いがある演歌的な感じがする。

 それが私の「むむむむむ」の虫を刺激する。

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| 宮本輝 | COM(5) | TB(0) |
2009-05-10 (Sun)
アニメ「無敵超人ザンボット3」を知っている人はどれ位いるだろう。。。。

 ウィキぺディアから「あらすじ」を拝借すると
『謎の宇宙人ガイゾックに母星を滅ぼされ、地球に移住したビアル星人の生き残りの子孫、神(じん)ファミリー。ついに地球へとその魔の手を伸ばしてきたガイゾックに対し、彼らは先祖伝来の発掘兵器である宇宙船キングビアルや巨大ロボットザンボット3で立ち向かう。戦乱の荒野と化した日本で、勝平たちの苦難に満ちた戦いが始まる。』

 私がこのアニメを見たのは小学校高学年の頃であった。ちょうど自分と同じ年代の子供が主人公だったのでそれで興味を持って見始めた(当時ロボットアニメで子供が主人公はめずらしかったと思う)。
 相当昔に見たのでほとんどの記憶が薄れているけど、それでもこのアニメは自分的には傑作として心に残っている。

 というのも当時のロボットアニメ(という言い方でいいのか)としてはあらゆる部分で斬新だった。
 まず単純な「勧善懲悪」ものではなかったからである。
 それまで見てきたその手のアニメは主人公が「正義」で敵は「悪」だったけど、このアニメはそんな単純設定ではなく、詳細は憶えていないけど主人公たちが周囲から非難の的になるという当時では考えられない設定だった。
 主人公達の「戦う事の葛藤」などの心理描写も今はめずらしくないけど、これも当時としては異例だった。 
 今でいう「新世紀エヴァンゲリオン」の始祖ともいうべき作品だと思う。

 ただ当時としては斬新過ぎたせいかヒットしなかった。マニアは熱狂したみたいだけど。
 よく「懐かしのアニメ」をテレビでやるが、この作品が取り上げられる事は全然無いし、私の周囲でも知っている人はいない。
 寂しい。。。。本当に本当に名作なのに。こういう時マニアの悲哀をしみじみ感じる。
 あの時代ではまだまだ受け入れられなかったけど、この作品から様々なチルドレンともいうべき作品が生まれてきたと思う

 最終回、主人公以外の仲間達が「皆殺し」的状態で死にまくるのだけど(いやあ、これはびっくりした)、最後生き残った主人公のもとにそれまで非難していた人々が集まるシーンは涙ものである。

 このアニメ知っている方いたらご一報下さい。

 

| 未分類 | COM(6) | TB(0) |
2009-05-09 (Sat)
   

 恐るべき謎の幻覚剤「BANANA FISH」。
 それを巡る陰謀に巻き込まれたアッシュ・リンクス。彼はNYのストーリーキッズ達のボスだが、その非常で冷徹な顔の裏には、壮絶な過去を持つ故の深い孤独と傷を抱えていた。
 取材の付き添いとしてNYに来た奥村英二と知り合い友情を育んで行く。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

< ネタばれあり!!!>

 私は昔は漫画おたくで(今も隠れ隊員だけど)相当な漫画本を持っていた。
 しかし居住区の確保や引越しやなんやかんやで間引いては里子に出し、間引いては里子に出していた。
 最大所有の時は1000冊を超えてたんじゃないかと思うが、今は段ボールに4箱位の数で押入れの中に収めている。
 その粛清の中をこの黄色い表紙の「BANANA FISH」は生き残った。
 
 それ程愛着のある作品だけど、この作品を読み始めたのは本誌で最終回が射程内にそろそろ入るかなという辺りであった。
 以前からこの作品の評判の高さは知っていたけど読んでいなかった。何故なら、
 「あの絵が好きじゃない」
 という作者に失礼極まりない理由だった(吉田先生、すんません、すんません)。
 当時はクールというかシャープな絵柄というのが好みではなく、要するに単なる読まず嫌いであった。

 読み初めた途端にがっちりとその世界へ引き込まれた。
 まず少女漫画とは思えないスケールと作風に驚いた。それまで私が持っていた少女漫画の概念を思いっきり変えた。
 最大の魅力は何よりも主人公のアッシュ・リンクスの魅力に尽きると思う。
 とにかく「イイ男」なのである。とかく女性はイイ男には弱い。私も例外ではなかった。
 比類ない美貌にIQ200以上の知性に高い身体能力。

 でもそれでいて孤独なアッシュ。とかく女性は孤独なイイ男にこれまた弱い。
 作者の吉田さんは結構ヒドイ人でマゾなのかという懸念を持つ位、主人公へ課す重荷が凄い。
 傷の深さが孤独の深さである。 

 アッシュと英二についてはもう語り尽くされていると思うので今回は作者によって、
 「最大の貧乏くじをひかされたラオ」
 について書いてみた。

 ラオがアッシュを殺したのは自分の為ではなく、ひたすら愛する弟の為だけど、結局その行為が弟に生涯消えない傷を残す。
 でも彼は愛する弟の傷を想像できない。というか全く想像しない。

 ラオみたいな人間は割りといる。優しくて頭が良くて基本は有能。だけどその持っている能力の方向性が決定的に間違っているタイプ。間違っているだけならまだしも結果愛する者をひどく傷つけるタイプ。
 
 ラストを読んだ時、「相手を愛する事」と「相手を理解する事」は必ずはも=ではないんだなと思った。=なら大ラッキーだけど。
 例えばうちの両親は私を愛してくれているとは思うが、私の事を理解はしていない。
 愛する事は愛情があれば出来るけど、理解するというのは愛情だけで成しえるものでははないのかもしれない。
 理解するのに必要なのは感性なのかそれとも理性なのか?

 アッシュが死んだシーンで号泣した後、ぼんやりとそんな事を考えていた。

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| マンガ | COM(6) | TB(0) |
2009-05-06 (Wed)
   

 奨励会は将棋を愛する限られた才能が集いプロ棋士を目指す場所。
 しかしそこは極めて厳しい勝負の世界であった。
 自らもプロ棋士を夢見ながら挫折し「将棋世界」の編集長を勤めた事もある筆者が、夢叶わぬ者達へと優しい眼差しを向けその物語を綴ったノンフィクション。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  私は盤上ゲームと言えばオセロゲームしかやった事がなく、将棋は「将棋崩し」というゆるいお遊びしかやった事がない。だからほとんど将棋の事は知らなかった。
 
 この本を読んで初めて奨励会の厳しさを知った。勝負の世界は何れも厳しいけど、奨励会の際立った厳しさの大きな要因が「年齢制限」にある。
 21歳の誕生日までに初段、26歳の誕生日までに4段をクリアしていなければならないのである(現在は違うのかもしれないが)。もしクリア出来なければ例外なくそれまでの全てをかけた夢は閉ざされて、その世界からは去らなければならない。

 10代後半から20代半ばというのは、
 「色んな意味で一番美味しい時期」 
 だと思うが、著者の言葉を借りればその決められた年齢が近づくにつれて「体中が総毛立つような焦燥感」をたっぷりと味わうようである。

 今は違うようだけど当時はプロ棋士の卵達は高校も行かず文字通り「将棋付けの毎日」を送る。
 将棋という特殊な世界で、特殊な環境で育つから本人が望まなくても「スポイル」された人間になる。
 その状況で、しかも大きな挫折を抱えて敗れた者は世間に放りだされてしまう。プロ棋士になるよりも散っていく者が多いが彼等にスポットが当たる事はない。
 著者の大崎さんがどうしても彼等を書かなければならないと切望されたのも当然の事だと思う。

 この本には夢破れた者達が幾人か登場するが、その中の主人公が成田英二さんである。 
 成田英二さんは大崎さんと同じ将棋の道場に通っていた。
 小学生の大崎さんが自分と同じ小学生で、有段者の座る席であぐらをかいて不釣合いな大きな扇子を広げばっさばっさとあおいでいたのが彼であった。
 成田さんの夢の為に両親は住み慣れた土地を捨て上京し献身的に息子に尽くす。だが残念な事に夢は花開く事が出来なかった。
 大崎さんがずっと音信不通だった彼に10数年ぶりに再会した時はサラ金から逃げまわり、定職はなく、超薄給の古新聞の回収作業をしながら、他にどこにもいくあてがなく辿りついたタコ部屋暮らしをしていた。

 だが彼は、
 「今でも将棋が自分に自信を与えてくれている。自分の支えになっている」 
 と言う。
 勿論そう言い切るのには時間がかかったと思うけど、たくさんの時間と出来事が流れても、なお残ったのがその言葉が残ったのだから重みがある。

 正直に告白します。
 ワタクシ本を読んで久しぶりに、
 泣きました。。。。 
 年を取ると涙のスイッチが入りやすくなる。私がスイッチを押された箇所をまとめて抜粋すると、

 最後別れ際、大崎さんがタクシーのルームミラーをのぞくと、雪の中でニコニコ笑いながら直立不動で手を振る成田さんがいた。
 その姿を見ているうちに大崎さんは涙があふれてとまらなくなる。
 「将棋を愛し将棋を信じ、そして今でも将棋に何かを与え続けられていることに感謝している、40歳の元奨励会員が立っている」

 若い時ならここの箇所では泣いていないと思う。でも年取ると何気ないシーンにツボを押される。
 その何気ない部分に色んな事が詰まっているというのが理解出来るようになったからだと思う。

 何年に一人かの天才少年と言われ、大崎さんが呆然と扇をあおぐ姿を見ていた彼が、愛するご両親を亡くし、お兄さんから勘当され、借金取りから逃げ回る生活を送る日々。
 それが不幸だと思わない。
 成田さんが不幸かどうかを決めるのは、多分成田さん本人で他人が決めるものではないと思う。
 でもラスト付近で成田さんの近況を読んだ時、
 「神様GJ!!!」
  と思った。
 
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| ノンフィクション | COM(0) | TB(1) |
2009-05-03 (Sun)
 ちょっと前から「えびマヨむすび」にはまっている。

 もともとえびもマヨネーズも大好物で、特にマヨネーズはサラダ類からコロッケ等、マヨネーズをかけて許される食べ物にはかけまくる「マヨラー」である。

 でも「えびマヨむすび」はこの年になるまで食べた事がなかった。というのも、ご飯にマヨネーズがつくのが許せなかったからである。
 くだらない事にこだわるのが自分の数多い欠点の一つだと思うけど、それでも「許せないものは許せない!!!」という事で長い事食わず嫌いだった。

 ところがまるで天啓のようにある日突然に、
 「えびマヨむすびが食べたい!!!」 
 と思い、機会があればとにかく食べまくっている。
 その日まで全く「えびマヨむすび」が好きになる予兆はなかった。だから突然のMY「えびマヨむすび」ブームに驚いている。。。。。

 こういう食べ物の好みの変化というのはどういう事情から来るものだろう。
 勿論年齢と共に食べ物の好みが変化する部分は理解出来る。年をとれば脂っこいものよりあっさり系を好むし、苦味のある飲食を好む場合もある。
 ただ年を取ったという理由では「えびマヨ」を好きになったというのが今イチ納得出来ない。

 こういうの食べ物の嗜好の変化も運命的なものがあるのかなと思う。
 「××××年の○月△日から○○が好きになる(または嫌いになる)」というプロセスが人生に組み込まれていたのではないかと思う位に説明のつかない突然の変化だからである。

 勿論「えびマヨ」如きで「運命」を語ってしまっては哲学者に石をぶつけられそうだけど、でも私は今までの「えびマヨむすび嫌いの人生」から「えびマヨ好きの人生」へと歩の向きを変える事になる。
 「えびマヨむすび嫌いの人生」と「えびマヨ好きの人生」に劇的な違いがあるわけではないけど、実のところ人生というのはこういう些細な(一見関係ないことでも)選択などがその後の人生の流れの変化に繋がっているのではないかと疑っているのだ。
| ヒトリゴト | COM(2) | TB(0) |
2009-05-02 (Sat)
 

17歳の時田秀美は勉強は出来なくても、女性にはもてる。
 父親はいないけど、理解ある年上の彼女の桃子さんや男好きだけどキレイな母親や還暦という言葉を知らない溌剌な祖父に囲まれて、今いる秀美の世界は温かなものだった。
 ちょっと変わっているけど、でも大事な事はちゃんとよく知っている秀美の周囲の同級生とのやり取りを綴った青春ライフ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 山田詠美さんの作品は私のお肌に合うものと合わないものに真っ二つに割れる。完全恋愛系の作品は全くダメで、こういうそれ以外の世界が描かれた作品はお肌にフィットする。
 同じ作家さんでここまで作品の合う合わないがあるのはめずらしい。
 だから彼女の作品を読む時はちょっとした賭けになる。果たしてこの作品は私の肌に合うかどうかと。

 もともと山田さん(苗字だけだと別の人に思える。。。)は題のつけ方がシャレている方だけど、この作品のタイトル「ぼくは勉強ができない」はやられたという感じで、
 「座布団10枚持ってきて!!!」 
 と言いたくなる。
 このタイトル見た瞬間、絶対に面白いと確信した。そしてそれは裏切られなかった。

 この作品に出てくる秀美や同級生の言葉は、
 「あった、あった、あった」
 とかつての自分もこういう事を思ったり、考えたりしていたなと10代の頃(ああ遥か昔だ)の自分を思い返した。
 改めて振り返るとあの頃は自分の世界を創り上げていた色んなパーツが、時を経て振り返るとなんと他愛のないものだったんだろうと思う部分もある。それでもあの頃はその世界が全てだったし、ガキなりに真剣だったよなとこそばくなる。

 赤ペンが側にあったら線を引きたくなるほど言葉の宝庫だけど、次のセリフは使い方によっては劇薬である。
 「どんなに成績が良くて、りっぱな事を言えるような人物でも、その人が変な顔で女にもてなかったらずい分と虚しいような気がする」
(文字を太く、大きくすると更に迫力ある。。。。)

 「あ~言っちゃったか」と思った。この言葉は言われた側のどんな反論も無効にしてしまう程の威力がある。
 まさしく取り扱いを注意しなければいけない劇薬である。このセリフを言われたら三日間は布団に入って泣き暮らしそう。
 でもこの言葉はカッコいい山田詠美さんだからこそ書いていいセリフだと思う。 彼女だからこそ「おっしゃる通りです」とひれ伏してしまう。

 この作品を読み終えた時「男の子っていいなあ」と思った。

 ある一定の期間、年齢の時に呼ぶことが許される「男の子」という時代。
 この記事を読まれた男性の中には「現実は違うぞ」とか言われそうだけど、勿論あくまでもこれは「小説」という事がわかっていても、それでもなんか羨ましくなった。

 「男の子」と呼ばれる時代は他の年代よりも少しだけ自由に飛びまわれる羽があるように思う。
 勿論「女の子」と呼ばれる時代も、その時にしかない特権があるのはわかっていても私はその自由に飛び廻れる羽の方が羨ましいと思った。

 それは私が絶対に「男の子」にはなれないからかもしれない。

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| 山田 詠美 | COM(2) | TB(0) |
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