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2010-06-02 (Wed)
   

 相馬克己は「奇跡の人」と呼ばれていた。
 それは八年前の大きな事故の為に彼は一度死にかけ、例え一命を取り留めたとしても植物人間になる可能性が高かったが己の生命力に支えられ見事死の淵から蘇ったからだ。
 それでも事故前のあらゆる記憶を全て失い赤ちゃんの状態から一つずつやり直さなければならなかったが、母親の献身的な支えもあって現在は中学生レベルまでの頭脳を取り戻していた。
 母親の死後退院し、31歳から新たな「相馬克己」としての人生を歩み始めるが過去の自分が気になり軌跡を辿って行くうちに残酷な事実を知る事になる。。。。


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 この作品は青春アイテムというわけではなく、記憶喪失となった青年の文字通り「自分探しの旅」である。
 
 前半は主として亡き母親がつけていた克己の闘病記と現在の彼の状況が織り交ぜられた巧みな構成になっており読み手を惹きこんでいく。
 もうダメだと思われていた克己が奇跡的に回復し未だに不自由な障害を残しながらも、そして支えとなっていた母親が亡くなった天涯孤独の状況でも、周囲に支えられながら今を懸命に前向きに生きる姿が綴られている。
 てっきりタイトルからも障害を越えてという感じの感動系の作品なんだろうなと思っていた。
 でも私はまだまだ真保さんを知らないんだなと思い始めたのは後半以降である。克己の「自分探しの旅」が本格化していく後半以降から作品の印象が変わってくる。

 はっきり言うと「自分探しの旅」を始めてからの克己は「変なおじさん」となる。
 克己が記憶喪失前の自分を知りたいという気持ちは理解出来るし、かつて愛し合った女性がいれば会いたいという思いは当然だと思う。
 ただ8年の歳月はそれぞれの生活があり事情がある。それなのにそれを搔き乱しまくっても自分の過去を追い求める姿に腹が少々立ってくる。しかもそれを自己正当化している辺りが私の怒りにご丁寧に油を注いでくれる。
 純粋だと思っていた克己がとにかく凄い自己中で身勝手な人間へと急変していき、読み手としては置いてけぼり感を抱いてしまう。レビューで克己の行動を「ストーカー」と言っていたが「おお、思わずその通り」だと思ってしまった。
 「奇跡の人」→「ストーカー」の図式には(ノ゚⊿゚)ノびっくり!!。
 また今の克己の知識は中学生レベルという説明があったが、自分の足跡を辿る時の手段などは大人顔負けの知恵を使うのは合点が行かない。その辺りにも違和感を覚えてしまう。
 ラストは登場人物の行動に共感しにくく私的には消化不良な締めであった。
 
 ただこの作品を読んで「記憶」について少し考えさせられた。
 それまで自分が生きてきた歴史が刻まれているのだから、記憶は自分が自分である事のひとつの指針だと思う。
 では「記憶を喪失する前の自分」と「記憶を失った後の自分」は同一人物なのだろうか?
人間は良くも悪くも環境によって形成されると思うが、そうなると持つ記憶によっては性格は多少なりとも違ってくるのだろう。
 臭いセリフだけど勿論魂の部分は変わらないから根幹の部分で「自分」を失う事はないんだろうけど。
 ラスト辺りで克己が自分の中に存在する過去の自分と今の自分で葛藤する姿は興味深かった。どちらも同じ克己なんだけど環境によって培われた人間性は違っている。
 環境(それによって形成される記憶)と人間性について考えさせられた。

 今回は残念な意味での「やってくれたぜ」であったかな。。。


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| 真保裕一 | COM(4) | TB(0) |
2010-04-21 (Wed)


  カメラマン喜多川が生涯で出会った様々人との断片を綴った短編集

「ストロボ」
 カメラマンとして成功した喜多川はある日かつての師と再会する。
 黒部勝人は女性を取らせたらピカ一と言われ売れっ子カメラマンだったが今は全盛期の面影も無くなっていた。
 喜多川は彼に対してある一件で後ろめたさを感じており苦い再会だった。
 どうやら黒部が時流に残されたのは8年前から女性を撮らなくなったのが主な理由のようである。
 ある時喜多川の事務所へ愛人との密会写真が送られて来た。そしてそれは黒部が送って来たものであった。
 口止め料を請求する黒部には事情があり、またそれが故に彼の最大の売りであった女性を撮るのを辞めたのだが。。。


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真保さんは「隠れロマンチスト」だと思っている。
 割と色んな題材をしっかりと勉強されて骨太な作品を書かれる方だけど、読んでいたら男性作家のロマンチズムが苦手な私のセンサーにビビッと来る時がある。でも基本は上手く作品の「色」に仕上げているのでそんなに気にはならない。
 この短編集はそのロマンチズムの安全運転という感じの色合いの作風が多く、きっと真保さんはこういう作風を書いてみたかったんだろうなあという空気が伝わってくる。
 時折アクセルを強く踏んで「おーい!!走ってるぞおー」と突っ込みたくなるがギリギリ私的に許容出来る範囲のロマンチズムで踏ん張ってくれている(なんかエラそう)。
 
 この短編集は喜多川光司という1人のカメラマン人生の軌跡を50代、30代、20代と遡る構成になっている。青春時代から熟年時代という流れではなく、先祖がえり的な逆の流れでの構成の意図が今イチ掴めないが(正直個人的には20代→50代の順番の方が自然な流れでより深みをもたらしてくれる気がした)、年齢事に違う立場や周囲の状況等によって抱えている思いや気持ちの違いに読み応えがあった。

 前から凄く思っていたのは「写真」という分野の芸術は特殊である。例えば絵画、文学、音楽等は基本は『無』から『有』を生み出す。
 しかし写真は被写体というものが存在していてそれを一瞬で切り撮って行く。基本は被写体ありきで完全『無』からの芸術ではない。そこが芸術における写真という分野の特異性であり、それが故に対象と相互作用や化学反応が起きて面白い。
 勿論同じ被写体を私とアラーキーが「写ルンです」で撮っても仕上がりは雲泥の差がある事は承知である。
 私が「りんご」を撮ってもそれはただの「りんご」としてしか写せないと思う。
 でもアラーキーなら「りんご」を「りんご」以外の存在として写せると思う。

 この短編集を読んでいると撮る側の格闘というのが伝わってくる。
 無から生み出されるものではないからこそ対象に肉薄する力が必要だ。その一枚皮をめくった先にある何かを一瞬で写し撮っていこうとする凄みを感じた。
 多分写真は撮る側のコミットメント能力とそれを支える人間としての地力が一番問われる芸術なのかと思う。

 でも骨太作品が好きな私にはロマンチズムの安全運転の真保さんは少しこそばゆい感じがする。  

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| 真保裕一 | COM(4) | TB(0) |
2009-09-07 (Mon)
   

 ロスで雇われ私立探偵をしている長岡は、所長でもあり親友の関口から『安田信吾』という青年を探して欲しいと依頼される。
 隠し撮りされた写真という部分にひっかかりを憶えつつも単なる人探しの枠を超える仕事ではないとその時は思っていた。
 だが捜索している内に信吾はかなりの危険人物である事が判明してくる。子供のような無邪気な笑顔のままで握手でもするかのように平然と人を殺すとして恐れられ、幾つもの殺人を重ねていたが捕まる事はなかった。
 そして長岡も初対面でとびきりの笑顔を見せられて銃を何発も撃ち込まれる。
 車の中にいて防弾ガラスに命を拾われたが、それが今回の一連の事件となる第一歩になった。


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 犯罪を犯す人間はそれなりに理由があるのだろうと推察する。
 お金の為であり、人間関係のもつれであり、もっとも昨今は「なんですかそれ?」というような意味不明の理由もあるが、その人なりの必然性があるのだとは思う。

 が、世の中にはごはんを食べたり、寝たりするのと同じ意義で犯罪を犯す人間がいると思う。
 理由があるのではなく、ただの行為として犯罪を行う人間である。
 この作品は文中の言葉を借りるのならそういう「生まれながらの犯罪者」がいるかどうかというのが主軸のテーマである。

 私個人の意見は「生まれながらの犯罪者」はいると思う。
 体に障害を持って生まれる方がいるように、心に障害を持って生まれる人間もやはりいるのではないだろうか?
 環境とか周囲の人間関係等が影響を与えるのではなく、彼等はもとから人間として大事な何かが欠けて生まれてくる。

 だがある意味その人達も気の毒だとは思う、こういう意見は奇特なのかもしれないが。。。。
 何故なら「生まれながらの犯罪者」として生まれたのはその人達のせいではないから。
 だから改心するような心がない以上彼等は永遠にそのくさりから解放される事はない。
 そこにある種の「哀しさ」を見出してしまうのは安全な所にいる人間の甘さなのかもしれない。。。

  あくまでも私は第三者だが、この作品の安田信吾の親のように自分の子供「生まれながらの犯罪者」だとやりきれないだろう。  
  愛が届かないのだから、どんなに愛しきちんと躾て育てても人の心を持てないのだから。
  読んでいてそのやりきれなさがひしひしと迫ってくる。
 
 信吾の親である英明は他人の手で殺される位ならと、自らの手で始末をつける為に息子を追う。
 そして長岡はその殺しをやめさせる為に英明を追う。
 その長岡に英明は言う。
 「私はあの子を今も愛しているんだ」 
 子を愛するごく普通の親としてはどんな子供でもやはり愛を絶てないのかもしれない。それが哀しい。
 でも信吾にとってその愛はなんの意味も持たない様が残酷に描かれている。
 
 英明と語り合い、そして英明の代わりに信吾を追い詰めることになる長岡自身も少しづつこちら側とむこう側の「ボーダーライン」を超えそうになる。
 無論彼の場合は英明の思いに共鳴したような行為だが、如何なる理由があっても犯罪的な行為は結局の所信吾側の人間になりうる可能性を含んでいると思う。
 そういう皮肉というか危険性を示唆している箇所を盛り込んでいるのはさすが真保さんだなと思った。

 何れにせよ「生まれながらの犯罪者」には会いたくないっす。。。。。

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