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2010-12-12 (Sun)


  1823年11月、凍てつくウィーンの街で1人の老人が自殺をはかった。「許してくれモーツァルト、おまえを殺したのは私だ」、老人は浮わ言を吐きながら精神病院に運ばれた。数週間後、元気になった老人は神父フォーグラー(リチャード・フランク)に、意外な告白をはじめた。--老人の名はアントニオ・サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)。かつてはオーストリア皇帝ヨゼフ二世(ジェフリー・ジョーンズ)に仕えた作曲家だった。神が与え給うた音楽の才に深く感謝し、音楽を通じて神の下僕を任じていた彼だが、神童としてその名がヨーロッパ中に轟いていたウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(トム・ハルス)が彼の前に出現したときその運命が狂い出した。-gooより







 「アマデウス」はまだ私が10代の頃に見たので相当うら覚えの作品である。
 でも相当心に残っている作品でもある。凄く様々な要素が上手くエンターテイメントとして結晶された作品だったと思う。史実の乗っ取った完全な創作だけどここまで割り切って娯楽作品に仕上げているのはブラボーである。

 この作品を見るまでモーツアルトって高潔な人格者のイメージだった。まだまだピチピチの頃の薄い脳みそだったせいか、天才の偉人伝の読み過ぎだったのかはわからないけど、「天才」というのはそういうイメージがあった。
 それがあんな馬鹿笑いする変わり者だったいうのがちょっとカルチャーショックだった。とあるレビューで「一般の人々のモーツァルト観を激変させた功績があることも確かである」とあったがやはり私だけではなかったんだと思った。
 さすがに最近は天才というのは一種の変り種というのがわかっているけど。

 モーツアルトは天才と言われている。でも私は音楽が数学より成績が良くない音楽音痴なので「へえ~そうなんだ」という認識しか持っていない。
 彼の曲は普遍的な曲というかどこかで聴いた事のあるようなでも多分どこかで聴いたわけでもない、でもすっとすぐ馴染む曲である。ベートベンとか他の音楽家が作曲した曲は「創作した苦悩」がそれなりに感じられまたそれが作品とての味になっているのだろうけど、モーツアルトの曲はそういう苦悩を微塵も感じさせないような気が個人的にはする。
 映画でも譜面の中身は訂正・加筆の跡が無いという事でサリエリがショックを受けるシーンがあるが、こういう人が神様に愛された、選ばれた人間という事なんだろうなあと思う。

 サリエリは凡人という秀才。決して、決して神の手帳を覗く事の出来ない一般ピープル。
 この人の視点から「アマデウス」という作品を創ったえらい人達は本当GJ。その対比が故にエピソードが際立ち、だから退屈する事なく物語を引っ張ってこれたと思う。
 私は彼の選ばれなかった者の「いじけぶりの自己陶酔」を見ているの凄い面白かった。他人がいじけるのを娯楽作品の一環として見るのは楽しいなあと根性曲がりの私は思う。対岸の火事的な野次馬根性が刺激されるとも言える。
 
 でも神様に愛されるというのは幸福なのかなあとも思う。勿論サリエリからしてみればモーツアルトの才能は悪魔に魂を売ってでも欲しいとは思うけど、天才は天才なりの苦悩も悲劇もあるんだろうなとは思う。
 何故なら神様に愛された世界というのは多くの人間とは違う領域にいる、そういう者が持つ孤独や苦悩は私等には理解出来ない。天才より圧倒的に凡人が多いんだし。

 贔屓されているように見えても人間というのは存外平等に出来ているのかなあと思う。


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2010-11-28 (Sun)


 1925年、北京。娼婦の母親に連れられ、孤児や貧民の子供たちが集まる京劇の養成所に入った9歳の少年・小豆子。新入りの小豆子は他の子供たちからいじめられたが、彼を弟のようにかばったのは小石頭だけだった。2人は成長し、女性的な小豆子は女役に、男性的な小石頭は男役に決められる。小豆子は「女になれ」と老師爺(黄斐)に躾られ、数え切れないほど殴られた。彼らは演技に磨きをかけ、小石頭は段小(張豊毅)、小豆子は程蝶衣(張國栄)と芸名を改め、京劇『覇王別姫』のコンビとして人気を博す。段小はある日、しつこい客に絡まれていた娼婦の菊仙(鞏俐)を助けたことをきっかけに、彼女と結婚する。少年時代より小にほのかな恋情を覚えていた蝶衣は2度と共演はしないと捨てゼリフを吐いて去る。その日北京は日本軍に占領された。ある日小は楽屋で騒動を起こし連行されてしまう。菊仙は日本側に取り入ってもらえるのだったら小と別れてもいいと蝶衣に告げるが、彼の協力で釈放された小は日本のイヌと彼を罵り菊仙を連れて去る。深く傷ついた蝶衣はアヘンに溺れる。そんなことがありながらも2人は和解へと進む。その後老師爺はこの世を去り、日本軍の敗退で抗日戦争は終わる。49年、共産党政権樹立。蝶衣と小は再び舞台に立つが、京劇は新しい革命思想に沿うよう変革を求められていた。-gooより

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 この映画のレビューを色々読んだけど悪く言っているレビューを読んだ事がない。どのレビューも最上級に近い褒め言葉ばかりである。それも納得の「創作の神様大光臨」の映画である。
 私達日本人から見たら近代中国50年史という外国の歴史物語であり、「京劇」とか「文化大革命」とかあんまり日常生活でお目にかかる機会のない馴染みの薄い題材が多いけど、それでいながら三時間近くの大長編を一秒たりとも飽きさせないこの吸引力が凄い。

 京劇の男役段小と彼に恋心を抱く女役の蝶衣。そして段小の妻である元娼婦の菊仙。男女3人の異質な三角関係が釣り糸となり物語を牽引する一方で上手く中国の歴史を編みこんでいる。
 この作における三角関係は「女→男←男」なのである。でも下世話的な話になっておらずひたすら報われない愛に生きる、ひたすら1人の男性を愛する京劇の女形役者蝶衣=レスリーの切なさが物語の「情」の部分を支えている。 (ただ「芸の道を究める」それが故に現実と虚構の線引きが出来ない蝶衣の段小への思いというのは恋なのか芸事の延長線なのかと感じる時もあったけど)。

 それと視覚的な美しさが飽きさせない理由の一つだと思う。「京劇」のシーンは本当に目に痛い位美しい。かなり視覚に訴えてくる映像だけど、存在を主張し過ぎる事無くきちんと芸術的な役割を果たしている。
 
 一番神様に愛されたのはやはり蝶衣演じるレスリー・チェンだろう。どの細部・演技者にも神が宿っていると思うけど、それでも彼無くしてこの映画は成り立たないと思う。
 役者というのは「役を演じる」人なのだろうけど、この作品におけるレスリーの演技は「役を生きる」であった。
 蝶衣を生きているレスリーは怖い位役とブレていない気がした。演じ者のレスリーの気配を全く感じない。映画の世界は当たり前だけど創作の世界であり、そこに登場する人物達はあくまでも虚構。でも現実に生きているか虚構に生きているかの「居る場所の違い」に過ぎないと思わされる位の神演技。
 
 コン・リーもさすが中国を代表する女優さんだけあって見る者を惹き付ける演技である。失礼ながらとびきりの美人さんではない。でも菊仙という女性は女の嫌らしさもしたたかさも持っていてそれでいながらたくましい女性を見事に演じきっている。

 で色んなレビューを読んでレスリーとコン・リーを褒めている人はたくさんいるけど、もう1人の主役であるのチャン・フォンイーの評価は低い(というか触れられてさえいないというか。。。)。
 段小という役柄は菊仙と蝶衣に愛されるという重要な役どころで、これまた失礼ながらも上記のお2人と比べると演じているチャン・フォンイーは知名度もそうだが存在感と役としての吸引力は劣る。
 ただ個人的にだからこそ、この映画においてはそれが正解のではなかったかなと思う。段小は決して人格高潔な男ではない。正直菊仙と蝶衣が情熱を傾けて愛するに値するような男性像として描かれていない。だからこそある意味薄っぺらさ(本当に失礼ですが)を感じさせる存在としてはその役割を果たしていて、そういう男性を愛した2人の人間の悲哀をしみじみ感じる出来過ぎでないのが丁度いい。穴がある位の方が他が際立つ(本当に失礼な事を言ってると思うのだが。。。)。

 男性であるレスリーのあまりの美しさに女性である自分の不甲斐なさをちょっぴり感じたのはおまけつきでした。 
 

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2010-11-14 (Sun)
   

映画監督志望の青年エド・ウッドは、性転換手術をテーマにした映画に取り組もうとするが、出資してくれるプロデューサーがいない。彼は往年のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシを口説き、彼を出演させることを条件に、資金を集めようとする。
ジョニー・デップが女装姿まで見せて、主人公を大熱演。またエドの仲間たちなど、全編に主人公のユニークな人間関係と生き様が息づいていて、エドの大ファンというティム・バートン監督が、愛情たっぷりに描いているのがよくわかる。史上最低の映画監督と言われていたとはいえ、エドのチャーミングなキャラクターがじつに微笑ましいのだ。-Amazonより







 自分がマニアだという自覚がある人間にはたまらん映画だと思う。マニア心を刺激する落とし所たっぷりの作品である。
「史上最低の映画監督」と言われたエド・ウッドの人生の断片を愛情込めて創られている。

 この作品は ジョニー・デップにハマっていた時期に見た。彼がまだ若手俳優と言われていたメジャーになる前の作品である。とにかくジョニー・デップが大熱演でこの役を女装も含めて楽しんで演じているのが物凄く伝わってくる。活き活きとしてる。
 彼は演技自体は元々上手い人だけど、「エド・ウッド」という役柄を演じているというより楽しんでやっているという演技力の「技力」の抜き加減が絶妙である。

 「エド・ウッド」という監督を知っている人はほとんどいないだろう。「史上最低の映画監督」と言われた監督で彼の作る映画はB級すら評価が高い位でC級の評価以前の作品であったそうな。
 私はエド・ウッドの映画は見た事はないけど、この映画の中に彼の作った作品が一部映像化されていたけど本当に駄作だった。駄作という言葉を調べて見たら「出来の悪い作品」という意味らしいが、その言葉すら評価が高いと思うくらいのくだらなさ。とにかく「作品」というレベルすら到達していない粗悪品である(言いたい放題だ)。

 でもエド・ウッドが心から映画製作を愛しているのは伝わってきた。本当に本当に映画が大好きなんだと。 
 ただ情熱は物凄くあったんだろうけど、才能が本当に全くなかったんだよなあな。その思いにはにごりも曇りもなかったのが伝わってくるだけに破滅的に才能の無さが見ている側は物悲しい。
 興行的には失敗続きでも映画を製作しているある一時期は確かにエドは幸せだったと思う(晩年は貧乏にあえぎ失意のうちに亡くなるけど)。創作の喜びと楽しさに心から耽溺出来た時期が間違いなくあったはずだから。

 エド・ウッドの仲間達が楽しくて彼らの人間関係ややり取りもおかしくて楽しい。周りに良い友人がたくさんいたのも彼自身が魅力ある人間だったんだろうなあと思う。その辺りがなんだか嬉しい。
 この作品は基本楽しくて面白い映画なんだけど、哀愁とホロ苦さでもなんだかたまらなく愛しくなるような気持ちをずっと抱き続けていた。
 それは情熱がありながらも才能を持つことのなかったエドの悲しさが、「才能」が持つ残酷な側面が、この作品をただの面白さで終わらせていない。

 全編白黒なのだけどそれが時代的な懐かしさとどこかおとぎ話のような現実味の無さを上手く醸し出している。
 ホントいい仕事していますティム・バートン監督。才能というのはある所にはあって眩しいもんです。


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2010-10-31 (Sun)
 

  親子4人で暮らしていた船村家の幸福は、未成年者の長男が小学生姉妹殺人事件の容疑者として逮捕されたことで無惨にも崩れていく。衝撃を受ける両親と沙織(志田未来)に群がるマスコミと野次馬たち。一家の保護のため、東豊島署の刑事である勝浦(佐藤浩市)と三島(松田龍平)は船村家に向かう。容疑者保護マニュアルに沿って船山夫婦は離婚、改めて妻の籍に夫が入ることで苗字が変わる。中学生の沙織も就学義務免除の手続きを取らされて、同い年の娘を持つ勝浦が保護することになる。皮肉にも勝浦の家庭も崩壊寸前の状況で、その修復のために娘の美奈が提案した家族旅行の予定もこの事件によって反故になろうとしていた。マスコミの目を避けるため逃避行を続ける勝浦と沙織だが、どこへ逃げても居所をつきとめられる。インターネットの匿名掲示板では、船村家に関する個人情報が容赦なく晒されていった。心労のため、保護の目をかいくぐって自殺してしまう母。それを知った沙織は、ますます錯乱する。勝浦がたどりついたのは、伊豆のペンションだった。主人である本庄圭介(柳葉敏郎)と妻の久美子(石田ゆり子)のひとり息子は、3年前に勝浦が担当する事件で殺害された。勝浦の失態は、自身と本庄夫婦の心に大きな傷を残していた。秘密裡に移動しているつもりだった2人だが、その行動はネットに依存する野次馬たちの悪意に追跡されていた。-ムービーウォーカーより





 *ネタバレアリ 
 加害者側の家族を保護する視点の作品というのは興味をそそる題材で私は見事に釣られてしまった。 見ていて加害者側の家族になるというのは文字通り「突然世界が変わる」だという事を痛感させられる。導入部分の加害者家族の状況が一変する、その世界が壊れる速さを唖然として見ていた。
 「その日」まで普通の日常が容赦なく壊されるその破壊力は本当に恐ろしい。

 犯人は詰まるところ警察なり塀の中で保護されるけど、何の罪も無い加害者家族は犯人が壊した現実世界の中で生きていかなければならない。その理不尽さに歯がゆい思いをした。
 と同時にこの映画を見ていて東野圭吾さんの「手紙」(記事 自分のものさし)「ある意味加害者家族への差別は正当」 (要約・抜粋)という言葉も思い返していた。
その言葉に一理なくもないが、でもフィクションとは言え自分は何もしていない自分は今までとは何も変わっていない15歳の少女が容赦なく平穏をもぎ取られていく様を見ていると、色んな理屈を超えてその言葉を容認したくはないなあとは思う。

 正直リアリティに乏しいなあと思う箇所が割りとあった。ネットにおける盛り上がり方は誇張気味だし、特にかつて勝浦の失態のせいで1人息子を殺されたご夫婦と彼の交流というのはキレイゴト過ぎて現実ならありえないような気がする。
 でもそういうリアリティの乏しさや突っ込み所を受け入れて惹き込まれたのは、やはり主役である佐藤浩一さんと志田未来の存在感と演技力の賜物だろう。
 佐藤浩一さんはダンディでカッコ良く、志田未来ちゃんはあまりにも可愛くてキュートだった。若干目の掛けどころがズレているとは思うが、紛れも無く主役のお二方の演じ者としての魅力が最後までこの映画をのをひっぱったと思う(正直役者に脚本が助けられたなと思う部分があるので、モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞は貰い過ぎだと思う。。。)

 ラストで絶望する沙織に勝浦は「生きるんだ」と彼女に言葉をかける。この一言は重いと思った。
 私ならとても言えない言葉である。「生きて欲しい」とは言えるけど「生きて」という言葉は躊躇してしまう。 何故なら過酷な人生を生きなければならないのは言葉を掛けた側ではなく、言葉を掛けられた側だからである。 その人の人生にずっと寄り添い手助け出来るのなら別だけど。だから私なら「生きて」とは言いづらい。
 でもこの言葉が勝浦も同様に傷を持つが故の孤独感から搾り出された精一杯のエールであるというのは伝わってくる。
 勝浦との最後の別れに見せた沙織の優しさに、これからどんな15歳よりも早く大人になろなければならない、またなろうとする姿を感じ愛おしく感じた。

 加害者側への視点という目にする事の少ない物語は、自分の思考の世界のどこかにその事に対する余地を置いてってくれると思ったな。


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2010-09-26 (Sun)


 かつてボクシングのスター選手だったが、引退を余儀なくされ、日雇いの肉体労働で妻子を養うジム。再びリングに上がるチャンスを得た彼は、奇跡的に世界ランク2位の強豪を倒し、やがて世界チャンピオンとの試合に挑むことになる。実在のボクサー、ジム・ブラドックの半生を、ラッセル・クロウとレネー・ゼルウィガーというオスカー俳優の共演で描いた骨太な感動作。
栄光と挫折、苦闘の末に手にしたチャンス。この映画には王道のアメリカンドリームが詰まっており、ロン・ハワード監督の正攻法の演出もあって、全体が古き佳きハリウッド映画の風格をたたえている。苦しい生活を強いられる家族のために、なりふりかまわない状態になっていくジムで、クロウが持ち前の演技力を発揮。夫を支える妻、父を応援する子どもたちの姿には、自然と涙がこぼれるだろう。Amazonより

何度か描かれるボクシングシーンは、画面から汗が飛び散ってきそうなほどの迫力だ。しかしそれは、ボクシングの激しさから来る迫力ではなく、主人公の強い思いが持つ迫力なのだ。あまりの強さに圧倒され、どうしようもなく、胸が熱くなる。『ビューティフル・マインド』のロン・ハワード監督とラッセル・クロウが再び手を組んで贈る人間ドラマだ。
 大恐慌時代のアメリカ。実在し、人々から“シンデレラマン”と呼ばれたボクサーの人生の断片を、カメラは寄り 添うように見つめていく。家族と幸せに暮らすジミーは、前途有望な若手ボクサー。右ストレートを武器に、次期チャンピオンになれると目されていた。だが、右手を故障。勝利に見放された彼は、ライセンスを剥奪されてしまう。失業者のひとりとなり、日雇いの肉体労働に就けることすら難しい日々。困窮の中、彼が守りたかったのは愛する家族だけだった。そんなとき、かつてのマネージャーから一夜限りの試合復帰を持ちかけられる。-gooより

 





 この映画は久しぶりに萌えた作品だった。

 「シンデレラマン」というタイトルからして10ポイント稼いでいるようなナイスタイトルである。タイトルからある程度の内容が推察出来るように「1+1=2」的に非常にわかり易い展開である。
 でもだからこそシンプルにダイレクトに心響いて来た。

 最初はボクシング界のスターだったブラドックの煌びやかな生活が描かれている。それが表舞台から落っこちて、一転超ド貧乏な生活への転換のプロローグはそれだけで釣られてしまう。
 その日の食べるものも事欠き、あげくに極寒の最中に電気まで止められてしまい、プライドを捨ててかつての仲間にお金を恵んで貰うというような極貧生活振りが丁寧に仕込まれている。
 ストーリー展開の車輪が転がり始める音のようなエピソードに、大きなうねりを予感して惹きこまれて見ていた。

 シンデレラの舞台はお城の舞踏会だけど、シンデレラマンの舞台はボクシングのリンクの上である。 
 ブラドックのボクシングの試合シーンは映画だとわかっているのに、
 「いけー、いくんだーブラドック!!!」  
と熱くなって画面に声援を送っていた。
 それ程白熱したリアルな試合シーンというのもあるのだけど、ブラドックの頑張る姿に心に火を焚きつけられた感じなのである。
 自分で言うのもなんだけど私のマインドは基本「低温」なのだ。なのに萌えた。

 それはブラドックが「おっさんヒーロー」だからだと思う。
 ブラドックがただひたすら守りたいものそれは愛する家族。その思いが本当に見ている側に伝わってくる。愛する家族の為に満身創痍でも戦い続けるのである。おっさんが全力で頑張る姿は若者とは違って人生すべてをかけているような背負う重み感じる。それが故に自分の背負う荷物の重みをだぶらせる気持ちもあって萌えるのかもしれない。
 家族のヒーローであり続けないといけないお父さんは大変だなと、性別的にお父さんになれない私はしみじみ思う。

 ブラドックの奥さんが金の草鞋を履いてでも探したくなるよく出来た奥さんで、彼が金持ちの時も超ド貧乏であっても変わらず側にいて夫を支え続ける。子供達も可愛いのだ、これが。
 夫婦愛や家族愛が素晴らしいタッチで描かれていて自然に心に染み込んで来る。長くなるので省くがマネージャーとの友情も良い。 
 この作品は最初から最後まで今時めずらしい位「愛だよ愛」の精神がストレートに垂れ流されている。でもそれが全然心地良い。

 最初は家族の為に戦い続けていたブラドックが、やがて大恐慌の現実の厳しさに苦しむ人々の希望の星となりもっと大きな何かの為にも闘う姿が印象深い。見ていて闘う事の意味を考えさせられた。まだ守るべきものの為に闘った事のない私には難しい命題だけど闘うべき時が来たら逃げまいと思う。

 世界チャンピオンとの戦いはまさしく手に汗を握った。ドキュメンタリーを見ているようにハラハラした。私は映画を見る視聴者ではなく、紛れも無く試合を観戦している観客であった。
 そしてはラストは本当に感動した。
 「おおおおおおおおおおおおおおおおおお」 
と拍手喝采である。

 見終えた時にウィキペディアを見て実話を基にした作品だと知って驚いた。たいてい事実を基にした作品と知ったらその事実の重みに心惹かれるが、今回は現実世界にこんな奇跡を用意する神様は粋だという思いの方が強かった。 
 見終わった時に元気というかむやみやたらとパワーが沸いてくるような作品である。

 是非見て貰いたいと思った映画である。


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