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2009-06-20 (Sat)
 
「二十歳の原点」 の著者高野悦子と同じ名前を持つ「私」。
二十歳の高野悦子が孤独であったように36歳の「私」も孤独であった。その重みに耐えかねた「私」は死を思うようになる。
 そんな「私」の前に「一年死ぬのを待てば眠るように楽に死ねる手段」をあげるという「人物」が現れる。
 「私」の一年後のゴールを決めた最終滑走を始める。

 編集者の原田は自分が取材した男性二人が毒で自殺した事がひっかかっていた。
 元々多少「死」を思わせる取材対象であったので自殺自体は意外ではなかったが、どちらも彼が取材してから一年以上経ってからの自殺という部分が気になっていた。
 何故「その時」ではなく「1年後」だったのか?


 この物語は二つの視点で進んで行く。

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  *若干ネタばれ有り

 孤独にも種類があると思う。
 自分や周囲のものを愛おしく思えるポジティブな孤独。
 高野悦子さんのような若さ故の孤独。
 そして「私」のように自分を見失い「死」に救いを求めるようなネガティブな孤独。

 私も「私」と同じような境遇の所もあるので「私」に共感出来る部分がある。
 30歳後半の独身女性は「オバ心」が揺れるのである。40歳になればふっきれる部分もあるのだろうけど、おまけに年のせいで若干身体にもガタも来るので迷いの時だと思う。

 だから「私」の最終滑走のルートに興味を持って読み進めた。
 読んでいていつか人は死ぬのだから期限はあるはずだけど、それでも確実に決めた期限は人によっては「幸福感」というか「どうせ死ぬのだから」という開き直りのような一種の解放感をもたらすものなのだなと感じた。


 この本を読んでの私の特に「ツボ入りました」部分は、恐らくこの本を読んでいる多くの人とは異なる部分だと思う。
 それは自分がメンタルを抱えている故なのだけど、
 「生きようと思えば生きられる人間の抱える絶望」
 「生きたくても生きられない人間の抱える絶望」 
 はどちらが深いのだろうかと。

 私が心の病の一番調子が良くない時で死に取り付かれていた時、後者の人達に対しては「申し訳ない」と思っていた。
 自分は体はピンピン(体は健康優良児だった)しているのに、それなのに死にたいと思うのは傲慢だと。
 前者の人間は後者の人間に対してある種の後ろめたさのような思いは抱えているような気がする。
 しかし後者の人間が前者の人間にプラスの感情を持つ事はきっと少ないだろうと思う(この作品でもここがポイントになっているけど)。
 不可避の可能性が高い死を目前にしている人達にすれば「生きようと思えば生きられる人間の絶望」は、この作品に出てくる登場人物の言葉を借りるのなら「贅沢なフィクション」と思うのかもしれない。
 でも前者体験者の私としては「生きようと思えば生きられる人間の絶望」は生きられるはずが故に、その「生への思い」を踏み潰すような絶望を抱えているともいえる。
 

 これは個人的な好みだと思う。
 「私」が孤独を癒し自分の居場所を見つけていくルートとして「ボランティア」というのは少々安易な気がした。  勿論それを素材として取り入れる必然性は理解出来る部分はあるのだけど、なんかこう面映いというかストレート過ぎるというそんなに上手くいくものなのか?というか。。。。

 突っ込みたい所はあるけど、でも揺れる「オバ心」に着地点としては悪くは無と思った。

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