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2009-05-30 (Sat)
   

 高村光太郎とその妻智恵子。 2人の愛は伝説的に語り継がれている。

 この作品では智恵子に焦点を絞り、彼女の生い立ちからやがて光太郎と出会い、結婚、そして統合失調症の果てに結核で亡くなるまでの軌跡を追う。
 著者の鋭い切り込みを軸とし「智恵子抄」で描かれた智恵子ではない「智恵子」を浮き彫りにしている。


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 私が「智恵子抄」に初めて触れたのは、多分高校生時代の教科書に載っていた「レモン哀歌」。
 読んだ時の感想は「レモン噛んだらすっぱいだろうなあ~」 という情緒もへったくれもない女子高生だった。

 数年後にこの本を手に取ったのは、 
 「伝説的なラブストーリーの裏が見たい」  
 というやぼな気持ちがあってこの本を読み始めた事を告白しておく。

 ここに描かれている智恵子さんは実際の彼女ではなく、津村さんがこだわり続けた「智恵子像」ではあると思う。でも実際の智恵子さんはこんな人だったかもしれないという説得力のある描き方である。

 私が興味深かったのは智恵子さんが精神に異常をきたしたのは彼女が光太郎の求める理想の女性像を演じるのに疲れ、光太郎の圧倒的な想像パワー、彼の芸術家としての「我」によって智恵子の創造意欲や自負が踏み潰されたからだという言葉である。 

 私はかなりの部分でこれは当たっているのではないかと思う。

 確か光太郎は彫刻家で智恵子さんは画家である。 
 物を作るものは強力なエゴを持っている。その人間同士がひとつ屋根の下で暮らすというのは色々大変だと思う。
 著者自身もご夫婦揃って創作に携わっている者として、
 「2人の力が拮抗していけば身近なライバルであり、不均衡であれば力のある者が無意識に弱い方を潰してしまう」 
 と言っている。

 だからと言って光太郎が残酷な人だったとは思わない、智恵子さんを確かに愛していただろうし。
 でも彼はあくまでも「光太郎」だったのだ。
 彼という視点からしか物事を捉えられなかったのだと思う。

 おとぎ話と違って現実の物語には必ず「影」がある、 通常は省かれているけど。
 でも私はその「影」に失望したりはしない。むしろその影こそに息吹というか醍醐味を感じる。
 きれいだけの色だけではなく、暗い色でも織り上げられている物語だからこそ現実なのだ。

 高村智恵子さんはかなりの完璧主義者だったらしく多分その事も病因の一因だと思う。真っ白な画布を前に何時間も座っていたという話しだし。
 その彼女が精神に異常をきたしてから作られた貼り絵は高い芸術性を持っており本当に皮肉である。
 私はその画集を持っているけど、シンプルでありながら、装飾性豊かであり、あらゆるものが削ぎ落とされたようなすがすかしさを感じる。
 精神を病み自分という「自己」が崩壊した事によって、自分のこだわりから解放されたんだろうなと感じた。
 心を病む事がなければ生み出される事のなかった作品だというのは切ないけど。

 また久しぶりに「レモン哀歌」を読んだ。当然だけど高校生の時とは全く違う感想を持った。
 その違いをしみじみ噛み締めた時、あの頃から随分長い年月が過ぎたんだなあと思った。

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