メンへラの読書日和
心の病を抱えつつ、でこぼこ人生を踏みしめながら読んできた数々の本の読書記
2009-11-07 (Sat)
科学者の中でも「異貌」な貌を持つ四人の科学者にスポットを当てている。
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私は昔から「頭の良い変人(ソフトに言うと変わった人)」というフレーズが大好物である。
「頭が良い」と言う言葉と「変人」という言葉のミスマッチぶりが、いちご大福のあんといちごのように意外ながらも良い味を出していると思う。
それに加えて「孤高の人」という言葉が付くと「ごちになります」と言いたくなる。
この作品に出てくる科学者も一風変わった人ばかりである(ただ前半は面白いけど後半に行くに従って形而上的になって退屈になるが)。
特に印象に残ったのがキャヴェンデイッシュという科学者である。
「有名になりたい!!!」という思いは多くの人が持っていると思う。
まして科学者であれば自分の研究を評価されたいと思うのが普通だと思う。
だが彼は普通ではないのである。
何故なら膨大な研究成果を残しながらも生前それらを全く発表しなかったからである。
キャヴェンデイッシュが求めたのはただ一つ、自分の好奇心を満たされば満足だったようである。
だから彼はよくあるように生前認められず無念のまま亡くなるというキャッチコピーとは無縁である。
キャヴェンデイッシュの研究成果に光が当たったのは死後約100年後。
マクスウェルという超大物物理学者が5年の歳月をかけてキャヴェンデイッシュの業績を整理し、自身で実験を行い結果を確認して発表した。
面白いことにオーム、ファラデー、クーロンといった業績により歴史に名を残した科学者よりもずっと前にキャヴェンデイッシュは彼等と同じ「発見」をしていたのである。
著者がナイスな書き込みをしている。
キャヴェンデイッシュの未発表の業績の中で後年発見されなかったものはひとつもないそうである。
全て発見されている。
このことから「発見」という代物はどんな偉大な業績であるにしろ「発見」される時があると。
アインシュタインの相対性理論もニュートンの万有引力の法則も発見されなかったら科学の歴史は大きく変わっていただろうと言われるが、彼等が発見しなくとも別の誰かが時が来たら発見したのではないかと解釈されている。
私もそう思う。
私は全くの無神論者だけど、こういう話を読むと創造主である神様がシナリオを用意していてそのシナリオに沿って歴史は流れているなあと思うと。
演者によって歴史が作られるのでしなく、シナリオがあって演者はそれに従うのが歴史と呼ばれるものかもしれない。
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2009-11-04 (Wed)
名門大学「首都大」。
そこには変わり者が集まっていると言われる「弦巻寮」があった。
父に捨てられ、母と死別した薫平はそこの寮生であった。
「弦巻寮」は常に廃寮の危機を抱えていたが、廃寮を目論む大学側とそれを阻止しようとする寮生の歴史に新たな流れが生み出されようとしていた。
大学側が名倉という舎監を送り込んできたのだ。
「若者が嫌い」と豪語する名倉はあの手この手を使い寮生を厳しく管理し、それに反発しまくる寮生達。
だが様々な事件を乗り越え互いに少しずつ心を通わせていくが。。。。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 男性作家さんは少ないない割合で心の中に「ロマンチズム」を飼っていると思う。
ただ個人的に男性の「ロマンチズム」あまり好きではない、己の「ロマンチズム」に酔っている気がするから。
ただ野沢さんの酔いかたは嫌ではなかった、この作品のでも良い酔いかたをされている。
登場人物達がとても魅力的に書かれている。
1人1人に味があるというか、肉付けにキャラクターの息遣いを感じさせる。
そのキャラクター達が恋愛や家族関係、就職等様々な事柄に遭遇する過程に親近感をもって読み進めてしまう。
薫平達、団塊世代ジュニアは傷つく事を嫌い、自分達の居心地の良い半径二メートルの世界にし関心がない。
私も多分団塊世代ジュニアなので彼等に共感していまう。
出来れば傷つきたくないし、痛いのは嫌だ。痛みをどう対処したらいいのかわからない。
そんな彼等が30年前は団塊世代の若者で機動隊員であった名倉と反発し合いながらも、様々な事件を解決していくうちに互いの距離を縮めていく。
ありきたりだけど上手く料理して読み手に「美味い!!!」と言わせる技量はさすが野沢さんだと思った。
名倉が薫平達に贈った言葉、
「皆さんの未来を傷つけるかもしれない。しかし何も傷つかない生き方より、それは遥かに意義があるのではないかと」
そうなんだよな、傷もまた生きている証なのである。傷つき乗り越えなければ得ることの出来ないものもある。傷つかなければ痛くはないけど何もならない。
ラスト付近で薫平等が自分の世界にただ漂うのではなく、足をつけて名倉と共に大学側と戦う下りは目頭が熱くなった。
その熱さを感じた時自分は確かに年を取ったのだと感じた。
若い頃に読んだら薫平等にしか共感出来なかったと思う。50代の名倉の気持ちはわからない。
でも今なら名倉と薫平達にもどちらにも共感出来るのである。
薫平達の世界はかつて私もいた場所であり、名倉のいる場所はこれから訪れるだろう世界である。
彼が薫平達に何かを残したい、他人を通して意味のある人生としたいという気持ちは理解出来る。
野沢さんが自殺されたのを知った時驚愕した。
妻子がいらっしゃって、個人的に仕事も順調に見えたので、それでもなお死を選ばれたのはそれなりの理由があるのだとは思う。
ただ、もう野沢さんの作品が永遠に読めないのは本当に残念だと思う。
彼の生み出す新しい世界にはもう行けないのだ。
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2009-10-31 (Sat)
刑事の本間は怪我による休職中に亡き妻の従兄の息子である栗坂和也から頼みごとをされる。
それは突如失踪した婚約者の関根彰子を探して欲しいという内容であった。
休職中の苛立ちと焦燥感を紛らわせる為に引き受けた本間であったが、次第に思いもかけず深い謎をはらんだ「関根彰子の失踪」を追跡していく。
失踪した関根彰子は実は偽者であり、新城喬子という女性が入れ替わっていたことを突き止める。何故入れ替わったのか?
本物の関根彰子はどこに行ったのか?
新城喬子という女性が消し去った痕跡を本間は焙り出し、事実を追い求めてく。
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将来自分の人生に無人島へ行くという不測の事態が生じたら、その時宮部みゆきさんの本を一冊だけ持っていって良いというお許しがあったら、私は迷うことなく「火車」を持っていく。
個人的に「火車」は数々の傑作を生み出された宮部みゆきさんの作品の中でも最高傑作だと思う。
この作品を読んで強く思ったのは、
「絶対にお金は借りるまい!!!」
とご先祖様に誓って決意した。
この物語にはそれだけの強い決意を抱かせる力があった。
サラ金の恐ろしさと、その地獄から逃れきれず追い詰められた者達の哀しさが痛切に響いてくる。
作品に登場する二人の女性、新城喬子と関根彰子。どちらの女性もそれぞれの事情によるサラ金に苦しめられ地獄を見る。
正直最初は読んでいて「私は絶対こんな風にはならないなあ」と他人事のように思っていた。
私自身サラ金利用した事がなく、これからも利用しないだろうし、親も筋金入りの借金嫌いである。
でも関根彰子の、
「私はただ幸せになりたかった」
という言葉に考えさせられるものがあった。
2人ともただ幸せになりたかっただけなのに、そうなれると思ったからこその行動で結局不幸になってしまう。
勿論私も幸せなりたいと願う当たり前の女性である。
でもその思いも、そうなる為の方向を見誤ると思いもかけぬ深い落とし穴に落ちてしまう事もあるのだと思った。 幸せになりたいと思うならそれは心のどこかに留めて置きたい。
この作品で鮮烈なのは新城喬子という女性である。
新城喬子は親の借金のせいで、事情により自己破産手続きも取れず追われる者となる。
幸せを掴んだと思った途端するりと逃げられてしまい、そしてそれは追われる者である限り続いていく。
でも彼女はあきらめない、幸せになる事をひたすら追い続ける。
そして他人になり代わり身分を乗っ取るという方法で幸福を掴もうとする。
新城喬子の行為は許されるものではないけど、どんなつらい目に会っていも死を選ぶのではなく生きてひたすら幸せになろうとする姿は感動すら覚える。
でも結局の所人は自分以外の何者にもなれないのである。入れ替わっても逃亡者である事に変わりはない。
新城喬子は裁かれる身である。
でもそれがただ幸せを追い求めた結果だというのが哀しい。
もし本当に無人島へ行ったら「火車」を音読してみたい。
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2009-10-28 (Wed)
「満月」は「キッチン」(心のキューピーコーワ)の続編。
えり子さんが気の狂った男に殺されてしまう。
既に田辺家を出て自分の世界を生きていたみかげであったが、今度は大事な人を亡くした雄一の為に再度戻ってくる。
もう以前と同じ世界を取り戻す事が出来ない場所で、互いの間に漂う喪失感や不安を恐れそこから逃がれようともがきながらも、光のある方向へ向おうとする2人の姿が描かれている。
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私はよしもとさんの衝撃のデビュー作「キッチン」よりも続編の「満月」の方が好きというひねもんだ。
「キッチン」は愛する者を無くした喪失感を癒す物語だったけど、「満月」は愛する者を無くした者がその「喪失感」潰されそうになりながらも生きていこうとする再生物語といえる。
この物語においてえり子さんという存在は偉大すぎて、その輝きが喪われた時の喪失感が痛い。
架空の人物のはずなのにその「喪失感」が私の心にも響いた。
でもみかげと雄一がなんとか明るい方へ明るい方へとはうように生きる姿が愛おしい。
この作品で一番印象に残ったのが次の言葉である。
「世界は別に私のためにあるわけじゃない。〜自分では決められない。だから他のことはきっぱりと、むちゃくちゃ明るくした方がいい、って。」
これは首がもげそうになる位同意する。
自分を巻く世界が容易に変えられないのなら、自分のいる世界は明るく生きて創り上げたいと私も思う。
でもそう思えるようになったのは苦しみの闇の深さにうんざりし、明るさの持つ救いを知り開き直れたからだ。
この作品は「食べ物」に関する描写がよく出てくる。
みかげ自身は料理研究家でありそれに関わるシーンや、みかげが作った大量のごちそうを2人は食べまくり飲みまくるシーンが出てくる。
食べ物に関するシーンは暗いトーンの中で力強さを感じさせる。
そういう描写を読んでいると生きることはつまる所食べることだなと思った。食べるという行為に生命が宿っているのだと感じる。
みかげも雄一もその生命感によって支えられる。
ラスト辺りでみかげが「めぐり会いのようなすごい美味しいカツ丼」を食べる。
そしてそのカツ丼を持って失われそうな雄一との繋がりの糸を手繰り寄せようと会いに行く。
雄一君がみかげに言ったセリフ。
「こんなカツ丼は生涯もう食う事はないだろう。・・・・・大変、おいしかった」
このシーンを読んで
「ああ、カツ丼が食べたい!!!」
と心底思ってカツ丼食べに行った。普通に美味しかった。
五感に訴える物語は凄いと思う。
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2009-10-25 (Sun)
カメラマンの島津と、その妻ヨーコ。繊細であるがゆえに、時にエキセントリックな行動に走りがちなヨーコに翻弄されながらも、島津は彼女を愛し続けていく。写真家・荒木経惟のフォトエッセイを原作に、異能の才人・竹中直人が監督・主演したノスタルジックなヒューマン・ドラマ。
東京の裏路地といった日常的場所を魅力的にとらえる撮影、また夫婦の住む部屋など、細部にまでこだわりきった美術や小道具、ささいな日常の音もにがさない録音、初めて映画音楽を担当する大貫妙子のささやかなメロディと音色の妙など、優れたスタッフワークにも支えられ、これが3本目の監督となった竹中演出も冴えわたる。ヨーコ役の中山美穂が、これまでにない大人の女性を熱演し、新境地を開拓しているのも特筆すべき点だろう。ーAmazonより
この作品は竹中直人さんが監督と演出を務めていらっしゃる。
最初の監督作品である「無能の人」を見た時も思ったけど、
「すげえやー」
と才能に脱帽である。
下敷きは天才アラーキーこと荒木経惟と亡き妻陽子さんの日常が綴られたフォトエッセイ「東京日和」だがお二人の再現物語ではなく、それをなぞらえて全く別物語にしている。
荒木さんとはまた違った色合いの「センチメンタル」さで作品を織り上げている。
荒木さんの「センチメンタル」が「情」なら、竹中さんの「センチメンタル」は「ヒューマン」という感じかな。
後、竹中さんの演技の素晴さは言うまでもないが、ミポリン(死語か。。。)こと中山美穂さんの透明感のある存在感が素晴らしい。演技って演じるだけではなく存在感も演技なんだなと思わせる。
基本的に愛し合う夫婦の何気ない日常や旅先での出来事がただただ綴られていく映画である。 劇的な展開もドラマチックな流れも無い。
でも確かにそこには「何か」があるのだ。
それが何かと問われたら残念ながら今の私では的確には答えられない。でもこの映画には見る者を捕らえて離さない魅力が宿っている。
私は見ながら泣いていた。
生きることはすなわち何かを誰か愛することであり、そしてやはりそれは素晴らしいと思って泣けた。
この映画を見て凄く感じたのは「何があっても空は青い」でも書いたけど、誰かを愛するって結局の所「別れ」も含むんだなと。それを切り離して愛することはならないと思った。
愛しあった時間だけを抱き続けるのではなく、いつか来てしまう「別れ」による喪失も孤独も受け入れていくことが「愛する」ことなのかなあ〜と未熟者の私は思うてみる。
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